去年大津市の中学男子児童が自殺をした事件で色々な事実が判明し、連日のニュースに取り上げられている

いじめの内容も聞けば聞くほど、調べれば調べる程に酷いものであった


自分がまだ十代で家庭の事情で施設にいて、施設から出るか出ないかの頃にも当時中学二年の男子児童がいじめを苦に自殺するというニュースがあり、いじめの内容を知り衝撃を受けた事を思い出す…

今でもその少年の名前や、ニュースに取り上げられていた時の生前の笑顔などを覚えている…

大津のいじめでも自分が知るいじめでも被害者は金品を巻き上げられて、身体的にも暴行などを受けていた…

まだ十数年生きてきただけのまだ義務教育も終わっていない未成年が「金を持ってこい!用意できなかったらもっと酷い目に遭うぞ?」

というヤクザ紛いの脅しや相手への追い込みを平気でするのを昔は想像できたろうか?

戦後日本に於いて「知的で文化的な健康で安心して暮らせる社会」
を目指した結果、同年代の人の痛みもわからない人間が貧しい心で嘲笑い、同じ日本人でも隣人が隣人を死に追いやるような現状がある


自分達の祖父や曾祖父達の中には「後を頼む、この先の日本を君達に託す…」

と言って覚悟を決めて戦火に飛び込んで散って逝った先人達は今の日本の姿を想像しただろうか?

彼等が命を賭けてまで守ろうとした日本の望んだ姿だろうか?

今を生きる自分達も望んでいる現実とは言えない…


「個人主義」が蔓延している現実では「他人事」でしかないのか?


何故人の痛みのわからない「不感症」な人間が増えてしまったのか?

人を見て廻ると、他者に干渉する事を避ける「不干渉」な人の存在に気付く…


時に自分が相手の事で必死になった時、彼等は「何もそこまでしなくてもいいんじゃない?」
「自分がしんどいだけじゃない?」

と言う場合がある

そういう人間の多くは「利他的」
ではなく、自分と他人を実に冷めた心で割り切ってしまえる「個人主義」が強く、時に「利己的」で自分の求めるエゴイズムには忠実な場合がある

彼等は時にエゴが強いから「自己中心的」であり
そういう部分が強いと当然人の間に立って考える「人間」の部分が弱くなる

相手の気持ちを考えるだとか、苦しみや痛みを想像するだとか

本当に人を愛する気持ちみたいなものもどこかに置いて行ってしまいがちにならないだろうか?

表面的な便利さや豊さの裏では人間の心が蔑ろにされてしまっていて人間の心は貧しくなっているように思う…

彼等が親になった時に「心」を持つ「人間」が育つだろうか?

学校に入れてしまえば教育の責任と甘く考えてはいないか?

親兄弟がいる「家庭」から始まり、生活の中で他者との関わりから大なり小なりのコミュニティーである「社会」を知り「学校」などで教育を受ける

「家庭」も「学校」も「社会」も人間が成長する中での影響力は大きい

何故ならば人間は
「環境に適応する生き物」
だからだ、育つ環境が極寒の土地ならそれに適応するし、灼熱の砂漠ならばそこで生きる為の知恵などを身に付けるだろう


子供の頃から戦火の中で育ったらそれを普通に感じる事もあるかもしれないし、今の日本に生まれて戦争が起きてる訳じゃない中で育てばそれが普通に感じるかもしれない
道路が整備され、水や電力などのインフラが整備され、現代日本では新しいモノを作られてそれらを求める自由や権利を与えられている


経済活動の中で金はモノを生み、モノは金を生む
人間が生きる為に必要な最低限の欲求があるが「モノ」や「カネ」は人間が生きる為の必要以上の欲求を煽る事になり、
その際限の無い欲求は永遠に人の心を満たさないように思う

求める欲求が強ければ強い程に私欲である「エゴ」が増長されるし、自分の利益や快楽の為に「人を人とも思わない」ような人間が現れても不思議ではない

社会に於いては子供達は親や大人達の姿を見て育つ…

「子は親を映す鏡」

といわれるが、
親や大人の在り方で、社会の在り方で時に子供が被害者にも加害者にもなる

新しく生まれて来る子供達には生まれて来る時代や社会や親は選べない

だからこそ今を生きる大人達が子供達に正しい後ろ姿を示してやるべきだと思う

しかしながら現実ではいじめを見てみぬふりのふざけた教師や、事実を口外するなと言う学校、自分達のメンツが後生大事で保身に走る汚い教育委員会のお偉い方々…


子供達の為に、次の世代の為に礎になって命を賭ける事も出来ないのか?

この国には文字通り命を賭けて腹を切る事が出来るくらいの責任を背負う人間が何故いなくなったのか?


少なくとも戦時中には守るものの為に、愛する者の為に死ぬ覚悟がある侍の精神を持つ男達がいた

古くは家臣の不始末で腹を切る殿様や、城兵の助命を条件に腹を切る事が出来た侍がいた


今の大人達を見て、「貴様らには誇り高い侍の血は流れていないのか?」
と問いたい

ニュースで自分達の責任を逃れようと言い訳ばかりしている奴らを見て本当に反吐が出る…

今回のいじめや自殺に追いやった人の痛みのわからぬ餓鬼やうわべだけの教師や大人、保護者達には腹を切ってもらいたいし正直乗り込んで
「お前ら全員腹を切れ!」

「お前らが全員腹を切ったのを見届けたら自殺幇助で俺も腹をかっさばいてやる!」
と言う文言を告げるくらいのつもりだった…

今の若僧は精神年齢が低いが、昔なら中二にあたる14でも元服していたし、大坂の陣で豊臣秀頼に殉じた真田幸村の息子大助も14歳位だったと云われているし昔の男はそれだけの覚悟があったものだ…

しかし腹の切り方を知らぬのならば、そして手前の落とし前のつけかたもわからぬのなら

そいつらの前で自分が腹を切って

「背負うモノの重さや大きさ」


「人としての覚悟」

を見せつけて教えてやっても良いとさえ思っている


少なくとも自分自身知ってしまった以上見てみぬふりはできないし、人としてそれは出来ない…




自分が今まで生きて来た中で色々な経験や体験、知り合ったり出会った人物との違いなどを肌で感じ、時に自分の中での変化や、逆に「自分はこれで良いんだ…」と確固たるモノになる事があった

自分なりに見聞きしたものの中で感銘を受けたモノがある

ある特攻隊員の妻に宛てた手紙を紹介したいと思う。

「はっきり言う。
俺はお前を愛している。

しかし、俺の心の中には今ではお前よりもたいせつなものを蔵するようになった。

それは、お前のように優しい乙女の住む国のことである。

俺は、昨日、静かな黄昏の田畑の中で

まだ顔もよく見えない遠くから
俺達に頭を下げてくれた子供達のいじらしさに強く胸を打たれたのである。

もしそれがお前に対する愛よりも

遥かに強いものというなら、お前は怒るだろうか。

否、俺の心を理解してくれるのだろう。

ほんとうにあのような可愛い子供等のためなら、生命も決して惜しくはない。

自我の強い俺のような男には、
信仰というものが持てない。

だから、このような感動を行動の源泉として持ち続けていかねば生きていけないことも、お前は解ってくれるだろう。

俺の心にあるこの宝を持って俺は死にたい。

俺は確信する。
俺達にとっては死は疑いもなく
確実な身近の事実である。」

宅島徳光 二十年四月九日殉職
二十四歳




アメブロ以外では自分に相反する所でアダルトメディアの人間などのブログが存在する

一人のその側の人間のウィキなどからネットサーフィンをすると色々な所に辿り着く

実際自分が見た経歴の人物は物心つく頃には性的な事に興味などがあったと書いてあり、18歳になる以前から自らその世界に入りたいと思っていたそうだ

そこで疑問なのが、周りには有識者がいなかったのか?

そして彼女を止める大人がいない事に大いに疑問を持った

そして本人と同じ事務所で雑誌などで裸になったとされている人物に物申す部分が前記の人物などに対する憤りなどが複合化されて

書いたコメントがこれである、管理の関係で反映されているかはわからないが…

「ネットサーフィンでたまたまここに来ました
同じ事務所の人のWikipediaを見たら「自分からAVに出たいと思っていた」

との記載…

人間の性が金になり、人前で裸を、それ以上を晒す最低な事を容認する社会…
その未成年を止めない腐った大人達…

最近ニュースを賑わすいじめ自殺事件での呆れた隠蔽や保身に走るような最低な大人が多い世の中では
良くない事すら止めれない大人も多いんでしょうね…

この国はいつからこんな誇りを捨てた人間ばかりになってしまったのか?

嘗ては背負う責任に対して腹を切る事が出来る、守るべき者の為に命を懸けれる真の侍魂を持つ男が沢山居た国だったはずなのに…

裸になった次は?

腐った商業レールでまたこの国の女性が性の捌け口になるのは間違いだと思う…

自分達祖父や曾祖父達が命を懸けて守ろうとしたこの国の、そして日本人の心や精神をこれ以上滅茶苦茶にしないでくれ!

先人たちは子孫達がこんな堕落した文化を送っているとは望んでいないはずだ…」


という内容

個人的に引用したい文章が次にあったのだが、文字数の関係で載せる事が出来なかったが…

おそらく見る側はいきなり何の因縁をつけているのか?

と思うだろう

しかし自分の中では色々な事が繋がったりしていて、積年に溜め込んだ、ある種の鬱積したモノがあり

それ等が自分の中で端を発するきっかけから止め処なく流れ出て行く勢いなのである…

自分の中では「鉄は熱いうちに打て」
とも言うべき場面にも思う