京都神田明神…平将門怨念の地「膏薬辻子 」 『将門記』の舞台を訪ねて | 遮那王のブログ

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歴史好き旅好き人間の、歴史探訪日記

京都にある神田明神を訪ねてみた。

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中へは入れないのかと思っていたが、入口は開放されており参拝することができた。

坂東で叛乱を起こした平将門は、天慶3年(940)2月14日、下総国の岩井(今の茨城県坂東市)の地で討たれ、将門の首級は京都に運ばれて獄門に晒された。ここがその場所だと言われている。

晒された将門の首級は怒り
「胴体を返せ!、もう一戦してやるぞ💢」
と光を発しながら、この地で三日三晩叫び続けたという。

(京都神田明神)

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京都神田明神…小料理屋、民家などが並ぶ中にポツンと建つ。

(入口の蛙)

 

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将門の首は晒されてから3日後、胴体を探し求め東の空を目指して飛び立ったという。
胴体のある坂東の地へカエル(帰る)。

(明神内の拝殿)

 

 

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(鳥居と拝殿)

 

 

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鮮やかな朱色の鳥居…鳥居の背が低いため頭が当たらないよう気にしながらお詣り。

(拝殿横にある石)

 

 

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(将門一代記)

 

 

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明神内の壁には、将門の生涯について記されている説明板が掲げられている。
将門の生誕から、この場所で獄門となるまでを簡単に知ることができる。

(膏薬辻子)

 

 

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四条通りを入った狭い路地…神田明神は膏薬辻子(こうやくのずし)の一角に建つ。
コインパーキングの角には説明板が。

(膏薬辻子の由来)

 

 

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938年、空也上人がこの地に念仏道場空也供養の道場を開き、空也上人は将門の怨念を鎮めるため道場の一角に塚を築いたのが、今日の京都神田明神の始まりとされている。「空也供養」が「膏薬」に訛り、狭い道を意味する「辻子」と合わせて膏薬辻子の地名の由来となったという。

一説によると、歴史上、晒し首となったのは将門が最初とも言われている。