あの事件は話題になっただけに様々な解説がされてますね。
詳しいもの程だいたい専門的で解りにくいですが。
ので、だいぶ簡単に個人的な考えを書いときます。
よく心理学的な解説で書いてあるのが、承認要求とかでしょうか。
ボクはそっちの方はあんまり詳しくないですけど。
ボクの考えも近からず遠からずでしょうか。
まず、彼が回転寿司で回ってるお寿司や湯呑みにつけた〈唾液〉って何でしょうか。
〈体液〉ですよね。
体液をその辺のものにつける行為、それは何でしょうか。
動物の〈マーキング〉です。
これには何の意味があるでしょうか。
他の動物に対する自分の領域、あるいは自分自身の主張です。
しかし、人間が他の人間に対して自分を主張する場合、唾液をつけるだけでは足りません。
他の人はわかりません。
多くの動物のように、オシッコだったら臭いかも知れませんが、誰のものか、人間のものか、もしかしたらオシッコなのかすらわかりません。
だから、SNSで拡散する必要がありました。
ここまで言うと、その様子を録画してた人の役割がわかりますね。
動物でいうと〈オシッコ〉です。
あと、それを嗅ぎ分ける嗅覚です。
では、彼らが〈マーキング〉した回転寿司って何でしょう。
回転寿司は、外食産業の中でも特にみんながルールを守る事で成り立ってます。
湯呑みなどを汚さないのはもちろん、他の人が頼んだものを取ったりしません。
実に日本的です。
いわば小さな日本、もっというなら、小さな社会、人間的社会です。
彼らは、小さな人間的社会に対して、動物的に〈マーキング〉しました。
彼らは、人間的な精神の自由を失って動物化したのです。
彼らは恐らく社会において、つまり学校において、録ってた人が社会人なら会社において、みんなと同じになるよう求められ、精神の自由を失ってたのです。
そして、それに抵抗しました。
しかしその結果、彼らはあまりに人間的であったが故に、動物的になりました。
今回のことで、あれをやった少年は社会から叩かれ、切り離されました。
録画してた人にしても、裁かれようがそうでなかろうが、社会が前と同じように見えることはありません。自分からは逃げられません。
いつ何時でも、アレのことが頭をよぎります。
彼らが強ければ、視点が変わったことで、精神の自由を取り戻すきっかけになるかも知れません。
しかし、十中八九は善悪という小さな枠の中で、自分が悪かったとか、悪くないとか、そういう視点に死ぬまで囚われることでしょう。
彼らが本当に強ければ、あるいは支える人がいたならば、自分が自由であれる何かを持っていたら、そんなことしなくても違う視点を見出せた筈なんですけどね。