前回の第1弾『「なぜあの人は困難を楽しめるのか?」を学術的に考察するとーレジリエンスの観点から』(http://ameblo.jp/ryrientar/entry-11180115373.html)に引き続き、
今回は第2弾として、
『人はヒトに優しくなれるのか?』について考察していきたいと思います。
毎回そうですが結構長くなりそうなので、
今回は前編、ということで書いていきたいと思います。
その前に。いったん整理です。
前回の文脈を引き継ぐと、
・困難な状況におかれた大人や子どもたちも「レジリエンス」が高ければ、
不幸に陥らずもっと楽しめるようになるかもしれない
→それは教育方法や心構えで身につけられる能力である
→とはいえ、周りの環境が困難すぎては不幸を脱出する糸口さえ見つからないことも
→【第2章】
他人に対して積極的に目配り気配り心配りをする気遣い、優しさといった性格特性を 伸ばすことはできるのか?
→【第3章】
そもそも自分の周りの人たちを気に掛けやすいような住環境を整えることはできるのか?
といった流れでした。
そこで今回は、特にヒトの心に焦点を当てて、
"周りの(苦しんでいる)誰かに対して積極的な目配り気配り心配りを促進できないか?"
を考えていきたいと思います。
平たく言えば、
『人はヒトに優しくなれるのか?』ということです。
恩を返すのではなく、恩を次へ贈る文化

舞台は、アメリカ・サウスカロライナ州のとある町の一角。
小さなコーヒーショップで、こんなことがありました。
「コーヒーが無料って、どういうこと??」
ある女性が自分のコーヒー代を支払った後、
"このお金がなくなるまで、ここに来たお客さんの分をごちそうしたい"
といって、100ドル札を置いていったそうです。
店員は驚きながらもその提案を受け入れ、実行することに。
すると後から来たお客さんたちは「コーヒーが無料って、どういうこと?」と驚くわけです。
そのたびに、
「先ほど来たお客さんが、みなさんの分も払ってくれたんですよ」と説明。
この噂は町中に流れて12,000人以上もの人に広まり、
多くの人がこれからやってくるほかのお客さまの代金としてお金を置いていったそうです。
中には何も買わずに、寄付だけしに来た人もいたとか。
地元でもニュースになったみたいです。
http://video.wsav.com/v/50492306/acts-of-kindness-multiplying-at-bluffton-coffee-shop.htm?q=Acts+of+Kindness+Multiplying+At+Bluffton+Coffee+Shop
こんな素敵な話が本当にあるのだろうか、と少々訝しいですが、
でも実際にあったら世の中がいいものに感じられますよね。
こうした優しい、素敵な思いやりが循環する習慣や文化があれば、
世の中はもっとよくなる気がします。
ただ、忙しく自分のことでいっぱいいっぱいで、
周りの人との距離感もイマイチつかめないここ日本で、
そんな行動は生まれるのでしょうか。
うーん、やっぱり難しい気がします。。
というわけで、
「こうした行動をどうしたら生めるのか?」
という前に、そもそも
「日本人(あるいは人間)には他人に優しくする特性が備わっているのか?」
ということについて、ちょっと考えてみます。
人間には、何の見返りもないのに他人に奉仕しようとする心は備わっているのか?
結論から入りますが、
例外を除いて一般的には「No」だと思います。
(例外とは、有無を言わさない強制や、異常な愛情から生まれる完全な滅私奉公など。)
それは、社会主義を実践しようと試みたソ連をみればわかります。

ご存知の通り、共産主義を目指したソ連でしたが、
労働が自分の利益にならない国民は、働かなくなってしまいました。
自分の知らないどっかの誰かのために働き、一方で働かなくても食える環境下では、
人は動きません。
つまり、社会が成り立たず、秩序が成立しないということです。
そのかわり、資本主義によって「働けばもっといい生活ができる」環境になった途端、
人々は目の色を変えて働くようになりました。
この誰でも知っている例から、
1. 人が動くのは原則"利己"のためであって、"利他"のためではない
2. 利他精神は、教育や強制によって育てられる人間性ではない
ということが言えそうです。
1.について、
「いや、でも俺、彼女のためならなんでもするよ?」
って人も当然いらっしゃるかと思いますが、それは確かに表層的には利他的です。
しかし、
自分の遺伝子を子孫に残して繁栄させたい
←繁栄するのは優秀な遺伝子(ルックスや運動性能、知性など)が必要
←それを備える異性と結ばれたい、自分のものにしたい
←そのためならなんでもしたい
と考えれば、それは利己的ともいえるのではないでしょうか。
さらにいえば、見知らぬ誰かに優しくするときだって、
モテたい、かっこいい、その方が理想の自分に近づける、そうしないと自分がキモチワルイ....
など、何かしら利己的な側面と結びついているはず。
マズローの五段階欲求説に基づいも、
高次元欲求になればなるほど外に向けた行動が増えますが(社会帰属、尊厳...)、
このように考えると基本的には"利己"がベースにあると思います。
また、2.については、
似通ったことが"いじめ問題"にも言えます。
ここ最近また問題視されてますが、
こうした不祥事が起こる度にモグラ叩きにされ、
世間は「若者の心がごによごにょ」「教師の指導がぼそぼそ」と言います。
しかし、それでこの問題が解決したことが過去にあったでしょうか?
国家レベルで「人のために動きなさい」と教育し、強制しても失敗するのに、
問題を心のせいにして解決を望むのは思考停止に近い。
冷静に考えれば、
「ドラえもん」「ハリーポッター」の共通点として、
"主人公がいじめられている"ということがあります。
いじめは人間にとって普遍的で、あらかじめ備わった人間性なのかもしれません。
ただ純粋に、ひたすら他人に優しくしようとする機能は、
おそらく心には備わっていません。
"他人に優しく"を推進したいなら、
まず問題の本質、人間の本質を理解する必要がありそうです。
「昔の日本はいい時代だった」に隠された罠

「昔の人々は周りの人に優しかったのに、最近の世の中(若者)は...」
なんてセリフを、よく耳にします。
昔の人はもっと優しくて、人情味に溢れていたのに、
最近の世の中は物騒で若者は自分勝手で冷たい。
でも、本当にそうでしょうか。
先程も述べましたが、いじめ問題は普遍的で、
よく時代劇でも目にしますが...
実は、ここには2つの罠があります。
ひとつは、そもそも、
「昔の人々は...」なんて言ってる人にとっての「昔」とは子どもの頃、という視点です。
子どもの頃は周りの大人たちがあなたを守ろうと、優しかった。
あなたにとっての「人々」や「世間」なんて、通学路と遊び場の範囲の中だった。
今のように情報伝達網も狭かったので、余計にそうだと思います。
それが、大人になって世界が広がって、周りの人も自分に甘くなくなって。
悪いことばかりに目をつけるニュースが、毎日のように垂れ流されるのを知って。
そりゃ、子どもの頃より大人の方が世間は悪者に見えるかもしれません。
そのバイアスは本当にかかってないのか?と疑う視点がまず必要です。
そしてもうひとつは、仮にそうなのだとして、
それが本当に「心の変化」に問題があるのか、という視点です。
昔は、"利他"的が"利己"的になる社会だった
その昔、日本は農村ばかりの集団主義社会でした。
そこでは皆で助け合わないと生きていけませんし、
社会の範囲も限られているので悪さをしたらすぐにバレます。
しかも、裏切ったら村八分という罰ゲームのおまけ付き。
こうした社会環境では、まずもって人を裏切ろうとしません。
言い方をかえると、「他人を信頼する必要がない」ということです。
だって、裏切られるという発想がそもそもないから。
すると、裏切られないという"安心"があるから、
他人への協力、気配り、優しさが生まれます。
日本人は、もともと信頼ではなく安心でつながってきた社会です。
ある調査で、日米の信頼感に関する比較が行われました。
大抵の人は信頼できますか?という質問に対し、
アメリカ47%
日本26%
大抵の人は他人の役に立とうとしていると思いますか?という質問に対し、
アメリカ47%
日本19%
だったそうです。
たしかに、日本では素性の知れない人に対しては、
利用されることを恐れて「人を見たら泥棒と思え」といいます。
集団社会主義のルールが適用される範囲外の人に対しては、全く信頼していないのです。
(よく田舎の人は優しいといいますが、基本的には構造は一緒なのではないでしょうか。それが習慣化し、当然になりすぎた結果、思考停止で「世界中の人はみんな優しい!」と思っているのかも...)
自分が困った時にそうしてほしいから、まず自分から周りに優しくしていました。
いわゆる、「困ったときはお互い様」精神です。
集団社会主義には、
根本的に"利他"的が結果的に"利己"的になる仕組みになっていました。
つまり、自分が生きる「環境」に利他=利己の循環システムが組み込まれているかどうかで、
利他行動が促進されるかどうかが決まっていたわけです。
"利他"的が"利己"的になる「環境」があるかが問題
現代では、どうか。
簡単にいうと、
"利他的にしたところで、利己的になるような環境じゃなくなった"
といえるのではないでしょうか。
個々の家を建てて厚い壁で隔て、お隣さんが誰かも知らない。
地域が一体となって助け合う文化は終焉を迎え、自分の力で生きていかなくてはならない。
そうした「環境」では、周囲への過度な利他行動が自分の得になることはほとんどありません。
前述の「昔の人々は...」という理論は、
「環境の変化」のせいで生まれた、ともいえるかもしれません。
それほど生きる環境が、人間性に影響を与えるということです。
また、海外へのボランティアや社会貢献を志す学生が増えたように感じるのも、
環境が大きく関係していると考えています。
簡潔にいえば"物語への参加欲求"と"引き算思考"が若者には蔓延していて、
だから社会貢献によってその欲求が満たされる(=利己的になれる)のではないでしょうか。
(詳しい記事はこちら→http://ameblo.jp/ryrientar/entry-11048756759.html)
なお、前述した"いじめ問題"ですが、実はある研究がされていて、
それによれば「いじめが起きている教室」と「起きていない教室」の最も大きな違いは、
“傍観者の比率”だったそうです。
つまり、「いじめをしない心」ではなく、「いじめを許さない環境」にこそカギがある。
翻せば、
「他人に優しくすることで利己的にもなれる環境づくり」ができれば、
人はヒトに優しくなれそうです。
前編まとめ
ざっくりですが、まとめます。
今回の記事では、『人はヒトに優しくなれるのか?』をテーマに、
そもそも「日本人(あるいは人間)には他人に優しくする特性が備わっているのか?」
ということについて、考えました。
結果、
「そうした人間性はない」が、
「他人に優しくすることで利己的にもなれる環境づくり」ができればテーマに応えられそうだ、
ということがわかりかけてきました。
そこで次回は、
「他人に優しくすることで利己的にもなれる環境づくり」をサブテーマにしつつ、
特に行動経済学やコミュニケーション・アイデアに焦点を当てて執筆したいと思います。
近々続編を書くはずなので、
ご興味がおありでしたらよろしくお願いいたします。
thank you^^.
ちなみに。
かなり自信のある口調で述べてきましたが、
基本的に以下の著書の内容を絶賛参考にしています。
http://amzn.to/9fa7Aq
全くの根拠もない言論でもなければ、
僕の完全無欠のオリジナル思考でもないので、
その点は注意していただければと思います。。


