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Apollo-12

広告とか、コミュニケーションとか。
社会貢献とか、社会起業とか。
まちづくりとか、コミュニティデザインとか。
そうしたものたちの、少し先とか横の話。

随分と間が空いてしまいましたが、

前回の第1弾『「なぜあの人は困難を楽しめるのか?」を学術的に考察するとーレジリエンスの観点から』(http://ameblo.jp/ryrientar/entry-11180115373.html)に引き続き、

今回は第2弾として、
『人はヒトに優しくなれるのか?』について考察していきたいと思います。

毎回そうですが結構長くなりそうなので、
今回は前編、ということで書いていきたいと思います。


その前に。いったん整理です。

前回の文脈を引き継ぐと、

・困難な状況におかれた大人や子どもたちも「レジリエンス」が高ければ、
 不幸に陥らずもっと楽しめるようになるかもしれない

→それは教育方法や心構えで身につけられる能力である
→とはいえ、周りの環境が困難すぎては不幸を脱出する糸口さえ見つからないことも

→【第2章】
他人に対して積極的に目配り気配り心配りをする気遣い、優しさといった性格特性を 伸ばすことはできるのか?
→【第3章】
そもそも自分の周りの人たちを気に掛けやすいような住環境を整えることはできるのか?

といった流れでした。

そこで今回は、特にヒトの心に焦点を当てて、
"周りの(苦しんでいる)誰かに対して積極的な目配り気配り心配りを促進できないか?"

を考えていきたいと思います。

平たく言えば、
『人はヒトに優しくなれるのか?』ということです。


恩を返すのではなく、恩を次へ贈る文化

$Hello, my dear.

舞台は、アメリカ・サウスカロライナ州のとある町の一角。
小さなコーヒーショップで、こんなことがありました。

「コーヒーが無料って、どういうこと??」

ある女性が自分のコーヒー代を支払った後、
"このお金がなくなるまで、ここに来たお客さんの分をごちそうしたい"
といって、100ドル札を置いていったそうです。

店員は驚きながらもその提案を受け入れ、実行することに。
すると後から来たお客さんたちは「コーヒーが無料って、どういうこと?」と驚くわけです。

そのたびに、
「先ほど来たお客さんが、みなさんの分も払ってくれたんですよ」と説明。

この噂は町中に流れて12,000人以上もの人に広まり、
多くの人がこれからやってくるほかのお客さまの代金としてお金を置いていったそうです。

中には何も買わずに、寄付だけしに来た人もいたとか。

地元でもニュースになったみたいです。
http://video.wsav.com/v/50492306/acts-of-kindness-multiplying-at-bluffton-coffee-shop.htm?q=Acts+of+Kindness+Multiplying+At+Bluffton+Coffee+Shop


こんな素敵な話が本当にあるのだろうか、と少々訝しいですが、
でも実際にあったら世の中がいいものに感じられますよね。
こうした優しい、素敵な思いやりが循環する習慣や文化があれば、
世の中はもっとよくなる気がします。

ただ、忙しく自分のことでいっぱいいっぱいで、
周りの人との距離感もイマイチつかめないここ日本で、
そんな行動は生まれるのでしょうか。

うーん、やっぱり難しい気がします。。

というわけで、
「こうした行動をどうしたら生めるのか?」
という前に、そもそも
「日本人(あるいは人間)には他人に優しくする特性が備わっているのか?」
ということについて、ちょっと考えてみます。


人間には、何の見返りもないのに他人に奉仕しようとする心は備わっているのか?

結論から入りますが、
例外を除いて一般的には「No」だと思います。
(例外とは、有無を言わさない強制や、異常な愛情から生まれる完全な滅私奉公など。)

それは、社会主義を実践しようと試みたソ連をみればわかります。

$Hello, my dear.

ご存知の通り、共産主義を目指したソ連でしたが、
労働が自分の利益にならない国民は、働かなくなってしまいました。

自分の知らないどっかの誰かのために働き、一方で働かなくても食える環境下では、
人は動きません。
つまり、社会が成り立たず、秩序が成立しないということです。

そのかわり、資本主義によって「働けばもっといい生活ができる」環境になった途端、
人々は目の色を変えて働くようになりました。


この誰でも知っている例から、

1. 人が動くのは原則"利己"のためであって、"利他"のためではない
2. 利他精神は、教育や強制によって育てられる人間性ではない

ということが言えそうです。

1.について、
「いや、でも俺、彼女のためならなんでもするよ?」
って人も当然いらっしゃるかと思いますが、それは確かに表層的には利他的です。

しかし、

自分の遺伝子を子孫に残して繁栄させたい
←繁栄するのは優秀な遺伝子(ルックスや運動性能、知性など)が必要
←それを備える異性と結ばれたい、自分のものにしたい
←そのためならなんでもしたい

と考えれば、それは利己的ともいえるのではないでしょうか。

さらにいえば、見知らぬ誰かに優しくするときだって、
モテたい、かっこいい、その方が理想の自分に近づける、そうしないと自分がキモチワルイ....
など、何かしら利己的な側面と結びついているはず。

マズローの五段階欲求説に基づいも、
高次元欲求になればなるほど外に向けた行動が増えますが(社会帰属、尊厳...)、
このように考えると基本的には"利己"がベースにあると思います。


また、2.については、
似通ったことが"いじめ問題"にも言えます。

ここ最近また問題視されてますが、
こうした不祥事が起こる度にモグラ叩きにされ、
世間は「若者の心がごによごにょ」「教師の指導がぼそぼそ」と言います。

しかし、それでこの問題が解決したことが過去にあったでしょうか?

国家レベルで「人のために動きなさい」と教育し、強制しても失敗するのに、
問題を心のせいにして解決を望むのは思考停止に近い。

冷静に考えれば、
「ドラえもん」「ハリーポッター」の共通点として、
"主人公がいじめられている"ということがあります。
いじめは人間にとって普遍的で、あらかじめ備わった人間性なのかもしれません。


ただ純粋に、ひたすら他人に優しくしようとする機能は、
おそらく心には備わっていません。

"他人に優しく"を推進したいなら、
まず問題の本質、人間の本質を理解する必要がありそうです。


「昔の日本はいい時代だった」に隠された罠

$Hello, my dear.

「昔の人々は周りの人に優しかったのに、最近の世の中(若者)は...」
なんてセリフを、よく耳にします。

昔の人はもっと優しくて、人情味に溢れていたのに、
最近の世の中は物騒で若者は自分勝手で冷たい。

でも、本当にそうでしょうか。

先程も述べましたが、いじめ問題は普遍的で、
よく時代劇でも目にしますが...


実は、ここには2つの罠があります。

ひとつは、そもそも、
「昔の人々は...」なんて言ってる人にとっての「昔」とは子どもの頃、という視点です。

子どもの頃は周りの大人たちがあなたを守ろうと、優しかった。
あなたにとっての「人々」や「世間」なんて、通学路と遊び場の範囲の中だった。
今のように情報伝達網も狭かったので、余計にそうだと思います。

それが、大人になって世界が広がって、周りの人も自分に甘くなくなって。
悪いことばかりに目をつけるニュースが、毎日のように垂れ流されるのを知って。

そりゃ、子どもの頃より大人の方が世間は悪者に見えるかもしれません。
そのバイアスは本当にかかってないのか?と疑う視点がまず必要です。


そしてもうひとつは、仮にそうなのだとして、
それが本当に「心の変化」に問題があるのか、という視点です。


昔は、"利他"的が"利己"的になる社会だった

その昔、日本は農村ばかりの集団主義社会でした。

そこでは皆で助け合わないと生きていけませんし、
社会の範囲も限られているので悪さをしたらすぐにバレます。
しかも、裏切ったら村八分という罰ゲームのおまけ付き。

こうした社会環境では、まずもって人を裏切ろうとしません。
言い方をかえると、「他人を信頼する必要がない」ということです。
だって、裏切られるという発想がそもそもないから。

すると、裏切られないという"安心"があるから、
他人への協力、気配り、優しさが生まれます。


日本人は、もともと信頼ではなく安心でつながってきた社会です。
ある調査で、日米の信頼感に関する比較が行われました。

大抵の人は信頼できますか?という質問に対し、
アメリカ47%
日本26%

大抵の人は他人の役に立とうとしていると思いますか?という質問に対し、
アメリカ47%
日本19%

だったそうです。

たしかに、日本では素性の知れない人に対しては、
利用されることを恐れて「人を見たら泥棒と思え」といいます。
集団社会主義のルールが適用される範囲外の人に対しては、全く信頼していないのです。

(よく田舎の人は優しいといいますが、基本的には構造は一緒なのではないでしょうか。それが習慣化し、当然になりすぎた結果、思考停止で「世界中の人はみんな優しい!」と思っているのかも...)


自分が困った時にそうしてほしいから、まず自分から周りに優しくしていました。
いわゆる、「困ったときはお互い様」精神です。

集団社会主義には、
根本的に"利他"的が結果的に"利己"的になる仕組みになっていました。

つまり、自分が生きる「環境」に利他=利己の循環システムが組み込まれているかどうかで、
利他行動が促進されるかどうかが決まっていたわけです。


"利他"的が"利己"的になる「環境」があるかが問題

現代では、どうか。

簡単にいうと、
"利他的にしたところで、利己的になるような環境じゃなくなった"
といえるのではないでしょうか。

個々の家を建てて厚い壁で隔て、お隣さんが誰かも知らない。
地域が一体となって助け合う文化は終焉を迎え、自分の力で生きていかなくてはならない。

そうした「環境」では、周囲への過度な利他行動が自分の得になることはほとんどありません。

前述の「昔の人々は...」という理論は、
「環境の変化」のせいで生まれた、ともいえるかもしれません。
それほど生きる環境が、人間性に影響を与えるということです。

また、海外へのボランティアや社会貢献を志す学生が増えたように感じるのも、
環境が大きく関係していると考えています。

簡潔にいえば"物語への参加欲求"と"引き算思考"が若者には蔓延していて、
だから社会貢献によってその欲求が満たされる(=利己的になれる)のではないでしょうか。
(詳しい記事はこちら→http://ameblo.jp/ryrientar/entry-11048756759.html


なお、前述した"いじめ問題"ですが、実はある研究がされていて、
それによれば「いじめが起きている教室」と「起きていない教室」の最も大きな違いは、
“傍観者の比率”だったそうです。

つまり、「いじめをしない心」ではなく、「いじめを許さない環境」にこそカギがある。

翻せば、
「他人に優しくすることで利己的にもなれる環境づくり」ができれば、
人はヒトに優しくなれそうです。


前編まとめ

ざっくりですが、まとめます。

今回の記事では、『人はヒトに優しくなれるのか?』をテーマに、
そもそも「日本人(あるいは人間)には他人に優しくする特性が備わっているのか?」
ということについて、考えました。

結果、
「そうした人間性はない」が、
「他人に優しくすることで利己的にもなれる環境づくり」ができればテーマに応えられそうだ、
ということがわかりかけてきました。


そこで次回は、
「他人に優しくすることで利己的にもなれる環境づくり」をサブテーマにしつつ、
特に行動経済学やコミュニケーション・アイデアに焦点を当てて執筆したいと思います。

近々続編を書くはずなので、
ご興味がおありでしたらよろしくお願いいたします。


thank you^^.



ちなみに。
かなり自信のある口調で述べてきましたが、
基本的に以下の著書の内容を絶賛参考にしています。
http://amzn.to/9fa7Aq

全くの根拠もない言論でもなければ、
僕の完全無欠のオリジナル思考でもないので、
その点は注意していただければと思います。。
久々に更新してみる。

先日たまたま、
「高校時代の部活を振り返ってエッセイ書いてください」
というお願いをされて。

最近妙に小説を書いてみたいという欲求もあり、
あの頃を振り返って作文を書いてみた。

せっかくなので、掲載してみます。


***

『現役時代の思い出』

 「都立国立高校ラグビー部」と聞いてすぐ思い浮かぶのは、印象的な試合や厳しい練習、ではなく、実は練習前のひっそりとした校庭にいる自分だったりする。もちろん、もう何度繰り返したかわからないくらい走ったヘッドや、ボロボロになるまでやったタックル、(あまりないけど)相手を抜き去ったときにみえるひらけた世界、健やかなる時も病める時も共にいた仲間、「ハハハ」よりも「ガハハ」の似合う監督の笑顔と鋭い眼差し、勝利の興奮、敗北の悔しさ…振り返れば、たくさんの思い出が溢れ返る。しかし、それでも真っ先に校庭を思い出してしまうのは、すべてのはじまりはいつもここからだったから、かもしれない。

 今日は、どんなことが待ち受けているのだろう。

 期待というよりは不安のような、これから来るサンタクロースを待ち侘びるよりはこれから来る嵐に備えるような、そんな気持ちをポケットに忍ばせて、ゆっくりとストレッチをしながら校庭を眺めている。そんな自分が、確かにそこにいた。今日もきっと、痛くて辛くてキツいに違いない。
 しかし、それでも不安や嵐の中に飛び込んでいけたのは、知ってしまっていたからだ。
 仲間と共に努力してきたことが試合に活かせたときの楽しさを、「できない」が「できる」になったときの達成感を、監督を信じて練習すればその先には勝利が待っていることを、全部知ってしまっていたからだ。
 あの頃の僕は、何が楽しくて、何を信じればよくて、何をやればいいのかをすべて知っていた。ラグビーは僕のすべてだった。

 そして。
 今の僕はといえば、すっかりわからなくなってしまった。ラグビーがすべてだったあの頃とは違い、業務や人付き合いは周りでやかましく急き立ててくるし、夢は頭上から語りかけ、悩み事は耳元でそっと囁いてくる。
 聖徳太子のようにすべてを聞き分け、理解し、答えられればいいのだけど。
 やっぱりそうはいかないから、どれも中途半端に耳を傾けてしまっては理解し損ね、わからないことばかりが積もっていく。大人になるということは、わからなくなることなのかもしれない。
 何が楽しくて、何を信じればよくて、何をやればいいんだっけ?
 そんな疑問を抱きながら、朝8時の静かな社内でキーボードを弾く。
 
 でも。
 あの頃わかっていたことが今ではわからなくなってしまったけど、また5年後に今日のことを振り返れば、わかった気になれるのかもしれない。今、目の前に広がる始業前の社内の風景が、校庭の風景と重なってみえる日が来るのかもしれない。少なくとも今、これから来る嵐に備えるような気持ちで、始業時刻を待っている。
 
 あの頃の痛さや辛さやキツさを思い出せば、たいていのことはきっと乗り切れる。
 そんな言葉は気休めだ、と知っていながらも口に出してみつつ、とにかく今は、がむしゃらに取り組む(タックル)。

***


縦書きを想定して書いたので、ここだと行間含めて読みづらいかも。(ごめんなさい)

小説のような言葉遣いや小気味のいいテンポを気にして文章を書いたのは初めてなので、
なんか変な感じ。笑

でも、おもしろいなー。


あの頃手にしていたものを、
今の僕はたくさん手放してしまった。

仕方なかったもの。
仕方なくなんか、ほんとはなかったもの。


人は「過去」への後ろめたさや憧れを抱きつつも、
それでも「今」を肯定して、「これから」を迎えなければならないのかもしれない。

そんなことを、思うというよりは知るように考えた。


thank you ^^.



かなり前に宣言してはじめた利他行動にまつわる連載執筆、
勉強を継続させて発展させていかないとなぁ。。
今回は、震災について少し書きます。


正直、このトピックについて何か言及するのはすごく怖いです。

気づかない間に誰かを傷つけてしまうことが怖いし、
自分の考えや主張が認められずに誰かに非難されることが怖いし、
自分のたいしたことなさがバレてしまうことが怖いです。


でも、そうやって逃げていることが一番良くないことだと思うから、

何もしないことだけは不正解だと思うから、


自分がやってみたささやかな取り組みと、

それに対する想いとか、考えたことなどを書きたいと思います。



▽『普通のヒーロー』を、額縁におさめる

震災から、一年が経ちました。

一年というのは便宜的な区切りでしかありませんし、
364日目も、366日目も同じように大事だとは思いますが、

振り返ったり見つめ直したりするのに、いい機会になることは間違いないと思います。


一周年を迎える日には、きっと

ニュースバリューの高い特別な人の物語が映し出され、
変わりゆく街並が映し出され、
原発などの残る諸問題が映し出されると思っていました。

実際に、そうだったと思います。


でも、実際は、そうなのだろうか?


実際は、

ニュースにも取り上げられないような普通の人たちが大半で、
ドラマ化や映画化にはほど遠い普通の物語が数えきれないほどあって、
でも異常な状態で普通に生き抜くことだけでもきっとものすごく特別なことで、
そんな普通の人たちが積み重ねてきた小さな小さな特別な努力の結果が復興した街並だったりして。


もっと、

普通であることが、特別であることに気づいてほしい。
普通であることが、誰かにとってのヒーローであることに気づいてほしい。
普通であることが、励まされ、応援される対象であってほしい。
普通であることが、尊重されてほしい。


そう思って、こんな取り組みを密かにやってみてます。



『 i 』|3.11 あの日から生まれた『普通のヒーロー』たちを額縁におさめるプロジェクト
http://www.i-311.com/

$Hello, my dear.

$Hello, my dear.

サイトでは、8組の『普通のヒーロー』を、
3枚の写真を用いて表現しています。

1枚目では、1年前のその場の写真。
2枚目では、1年後のその場の今と、その景色を移り変わりとともに生き抜いた『人』。
3枚目では、1年後のその場の今がもっと見えやすいように。

震災にあまり関心がない人にも見てほしいから、
写真に添える文章は極力少なくしました。


実際にやってみて、あぁやっぱり、そこにはきちんと『人』がいるんだなって思いました。

本人たちが「やるのが当たり前」って思っている努力は、
それはたしかにメディアに映すには見栄えのいいものばかりではないけれど、

ものすごく特別で、尊いものばかりだと思いました。

そういうメッセージがひとつでも多く集まるのなら、
出会った石巻の人たちひとりひとりに、伝えたいな。


これで何か、物質的に豊かにできるわけではないです。
これで何か、世の中を良くできるほどのパワーがあるとも思いません。

ただ、自分がもし現地で暮らしていたのだとしたら、きっと
同じことしかできてないと思う。
同じことすらできてないと思う。

そんな自分にさえ、
「あなたは頑張ってるよ」とか、「応援してます」とか、

そういってもらえたら、本当に救われると思う。


去年の夏にボランティアで石巻にきたとき、
1日中、泥をかき集めて袋に詰めてはお墓をきれいにする作業だったけど、

何十人も集まって何日もかければ、自分たちにも何かできることはあるんだ
と思う半面、

何十人も集まって何日もかけて、これしかできることはないのか
とも感じました。

あれから半年ちょい、今回また同じ場所に訪れてみて。
結構な広範囲でお墓の一帯がきれいになってた。

一つや何十じゃできることは小さくても、
それが何百、何千、何万と集まって繰り返されて初めて、
こんなにできることがあるんだ、と思えるほど何かを変えられると感じました。

ちょうど、選挙の一票は小さくて自分の影響力が小さいと錯覚してしまうときと同じ。
一つ一つは小さいが、尊い。


僕の経験や考えと現地の人を比較することは決してできませんが、
ある意味で同じような感覚を持った人は多い気がしていました。

だから、もっと普通の、普通に頑張る人が励まされるようになればいいなと思います。


今回の取り組みでは映し出せなかったけど、

無駄に熱くて火傷しそうな銭湯の番頭を務めていたおばちゃんも、
レンタカーのガソリンを給油してくれたおっちゃんも、
マクドナルドで笑顔とレタペパを提供してくれたお姉さんも、

次回は写真におさめられたらいいな。



理想としては。

例えば部活動か何かで、
コーチが見てなくても「頑張るのが当たり前」と思って自分なりに努力し続けて、し続けて。

ある日、コーチにふと「お前はよく頑張ってたもんな」って言われたときは、涙が出るほど嬉しい。
あぁ、無駄じゃなかったんだって。見ててくれたんだって。

そんな感情を、状態を、ひとりでも多く普通で特別な人たちにつくれたらなって思います。



でも、この取り組みはこのままでは確実に、上記のことは達成できないでしょう。
今回の取り組みをやる中で強く思ったことが、もうひとつあって。


あらためて、自分は何もできてないなぁってことです。


現地の『普通のヒーロー』たちと会って話す度、
石巻2.0で活動的に支援する団体の方々と話す度、

時間をかけてきちんと現地で行動することこそが、何より街を良くしていっていると感じます。
そこにアイデアはたくさん必要なくて、誰もが思いつきそうなことでもまずは行動すること。

きちんと準備された行動こそが、きちんと何かを変えていける。


今回僕は、2月に「こんな取り組みだったらやる価値はないかな?」と
後にチームメイトになったげんきに今回の取り組みを相談して。

そしたら「やろうやろう!」と言ってくれたから、実施できました。
でも、準備期間から実施まで、本当に1ヶ月ちょっとです。


何かを変えるには、失礼なほどに準備が、努力が少ない。


正直、自分の提案した「額縁を用いた比較写真」というアイデアも、
それ単体では残念ながら、大きく何かを変えていけるだけの力は備わっていなくて。
そもそも、自分が伝えたいことを伝わるカタチにきちんと表現しきれているかも危うくて。

現地の人の協力を仰いで被写体になってもらうのにも、
詳細なインタビューを行ってより深く本音を探るのにも、
イベントなどとタイアップして大きな告知をするのにも、
ムービーにして観る人の感情を柔らかくするのにも、

何をするにしても、準備と努力が足りていなかった。


ヨソモノの自分が何かしようってこと自体おこがましいのではないか、とか、
やたらめったら震災関連の取り組みばかり社会的に増やしてどうするのか、とか、

色々と考えてたら動けなかった。


...でも、結果的には、やれてよかったとは思います。

何より現地で話した方々はみんな喜んで下さってたし、
こうしてブログを見て下さる方に少しだけでも、知ってもらえればなおさら嬉しい。
(そして、お口に合えば幸いです。)

きちんと続けていくこと、改善し続けていくことが大事だと思っています。

そして、こういった取り組みを続けながらも、できる分だけ、
小さなことをひとりの参加者としてやり続けていけたらいいなと思います。

「本当にやりたいこと」はまた別にあるけど、
なんだろう、日本人としてこっちにあまり無関係でいたくないから、
今後も関わり方を模索していきたいなっていう気持ちです。



こんなこといったりやったりすると、偽善者っぽいとか思われるのかな。。
やってることたいしたことないし、中途半端だし。

自分のやっていることが"誰かの"「善」だとは思いません。
やれる範囲でやりたいことをやるという、"僕の"「善」です。

結局は、自分のためだと思います。
それがたまたま、誰かのためにもなりたいという方向だという、ただそれだけで。
(きちんと誰かのためになれているか不安ですが。)

仮に何かしたいと思わないのであれば、何もしないでいいんだと思う。
それは悪いことでもなんでもないから。
その人が良かれと思ってやっていることは、何であれ応援したいと思う。
それがその人にとっての善いことなんだと思うから。

ただ、それが誰かに迷惑をかけたり傷つけたりすると困るから、
何かする時には熟考が必要だと思う。
それでも間違ったときは、気がついた人が指摘すればいいと思う。
むやみに非難したり罵倒したりするのではなく。
非難や罵倒は沈黙を生み、沈黙は思考停止を生み、思考停止が無関心を生むと思う。

(だから、僕も熟考したつもりではいますが、不適切な表現が含まれていた場合にはご指摘いただければ幸いです。)


とにかく自分が偽善者だの何だのって言われるのは気にしませんが、
少なくとも僕は、自分の善を誰かに押し付け比較して、偽善だのなんだのって言いたくないです。


...なんか偉そうなこと書いてすいません。。
ほんと、何もできてないくせにね。


もっときちんと、実力をつけたいです。



▽多角的に、事実をとらえる

2.11から、震災に関する情報ポータルサイトをつくっていました。

『Try-Angle for 3.11』
http://311try-angle.info/


ネットではなかなかまとまっている情報が少なくて、
今から無関心だった人が知識を得るには実はなかなか難しい環境だと思いました。

ただ、見方や知見がひとつ変わるだけで、何が正しくて間違っているかが変わってしまう。
僕も何が正しいのかよくわかりません。

書くために色々と調べてみて、こんなに自分の理解が足りてなかったのかと驚きました。
それと同時に、特に原発や放射能に関して、こんなに不透明なものを実用化していることに驚きました。
調べれば調べるほど、事実がわからなくなる。

だから、わからないままに、3つの視点を集めてなんとなく事実に近づけてみることにしました。
現地目線への配慮が欠けている点もあるかと思います、すいません。東京の人なので。
基本的に科学的な分析の知見から述べてあるのが僕の記事です。

もし興味があれば、こちらもご覧いただければ幸いです。


thank you^^.

$Hello, my dear.