こんにちは。
熊本 荒尾市 子ども・女性支援 あなたのお友だち
元❗️市議会議員 野田ゆみです。
昨日の会合で教えて頂いたヒストリー。
末裔の方も「波佐見はこの方抜きでは語れない」と言われるほどの方で、業績も素晴らしく、ご縁いただいてる事に感謝いたしておりますが、その方のご祖先も「世のため人のために」にご尽力された方だったのですね〜。
末裔のお2人と同席でき出る事に感動し、血脈のすごさを感じました。
(農林水産省ホームページより)深澤義太夫勝清は武雄の潮見城主渋江氏の一族として生まれ、波佐見の中尾に移り住み、当時の名を中尾次郎左衛門といいました。
30歳の頃、武者修行の旅に出かけ、紀州(和歌山県)の太地浦の鯨捕りに魅せられ、早速鯨捕りの技術を学びました。3年後帰郷し、藩庁に頼って鯨組を作り、九州の鯨取りの草分けとなりました。鯨は捨てるところが無いほど利用でき、一頭で莫大な利益が上がりました。その頃、九州近海は鯨の宝庫で、毎年豊漁が続き、義太夫はまたたくまに大金持ちとなり、全国でも指折りの長者になりました。
彼が偉大だったことは、その金を社会のために役立てたことです。神社や寺院の新築や修復、新田開きや多くの堤を造りました。その中で最大の事業が野岳湖の造成でした。このような功績から、藩主から深澤姓を賜り義太夫と改名しました。
また、本町には広大な屋敷を構え、その屋敷が大村宿の本陣に使われました。
義太夫の墓は、郷村記によると校区内の前船津にありましたが、後に建て直され、長安寺に建てられています。