今日、利用者の子が泣いた。
その時は理由がわからなかった。
その子は、言葉がしゃべれなかったから。
おやつに誘ったりしてみたが、全然だめだった。
今思えば僕はその理由がわからず、何もしてあげられないことに、本気で悲しみ、苦しめばよかった。
レヴィナスは苦痛の叫び声が他者への道となることで、苦しみは間人間的なものになるといったし、
BUMP OF CHICKENの藤原基央は「真っ赤な空を見ただろうか」で
ため息のわけを聞いてみても自分のじゃないからわからない
だけど力になりたがる こいつの痛みもこいつのもの
と歌ったり、「カルマ」では同じ悲鳴の旗を目印にして僕らは一つになるとも歌っている。
どういうことかというと、
①僕がその子の苦痛の表現を受け取っても、「他者の痛み」だから、理解できず、対処もできない。
②僕は理解も対処もできないことに苦しみ、その苦痛を表現する。
③その子が僕の苦痛を受け取れば、その子にとってそれは「他者の苦しみ」となる。
④①にもどる。
これが繰り返されることはコミュニケーションとなる。
おやつに誘おうとしても一方通行になってしまっていたコミュニケーションが、この方法ではできる。
これが、痛みを分け合うってことなんじゃないかな。
この方法を使うには、コツが要るだろう。
まず、①他者の苦痛を理解できないことを苦しむ感情の豊かさ。感情を作り出す力。
それと、②苦しみや、悲しみを表現する力。感情をアウトプットする力。
これを明日から磨いていきましょう。
おやすみ。