聖書の言葉です。2/2 | 牧師剣士     (堺育麦キリスト教会牧師)

牧師剣士     (堺育麦キリスト教会牧師)

48歳から28年ぶりに剣道再開。
すっかりはまってしまいました。
57歳で五段をいただきました。長年クリスチャン剣士でしたが、2010年11月に牧師になりました。これからも神と人に仕える者となっていきたいと願っています。剣道修業も続けていきます。

2015215

今週の暗唱聖句と解説




ですから、私は願うのです。男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。  第一テモテ二章八節

 この言葉を聖書の中から初めて読んだ時、驚きました。

男は、自分の意志を通さなければならない。自分の誇りを捨ててまで生きる事は恥である。恥をかいてまで生きる資格はない。

 自分のメンツのためには命がけで生きる。怒りも男の特権である。怒りを忘れたら男ではない・・・・。とか、男と言うものは黙って戦うものだとさえ教えられていました。

たとえ負けが目に見えていても、自分の義理のためには戦う事が生きる意味。武士道精神とはそんな事であり、武士たるもの恥をかいてまで生きる事はできない。その時は戦って死ぬべきだ!と教えられていたように思うのです。

 今日は何の日で「西南戦争の開始した日」と書きました。

これなどは、士族と言われる人たちが自分の義を貫こうと、死も覚悟で踏み出した戦いであると、歴史の中で思います。

 そして、このままで終わっていいのか、我々の意地を通そう!と言う、景気のいい主戦論には人は反対しにくく、引きずられて行くことが多いのです。

 西南戦争の時も、もっと穏やかな意見の通し方も少数の意見としては出されました。しかし、そんな弱腰。卑怯者の論理だ!とつぶされて戦いの道を選んでいったのです。

この世の戦いも結局のところ、人間的な怒りの心から出てくるものです。そしてそれは男として当然とさえ考えていました。

 ところが聖書は違います。

怒ったり、言い争ったりすることなく

どこででも(どんな時でも、例外なく・・・・)

きよい手を上げて祈るようにしなさい。と言われているのです。

怒りや戦いを解決にするのではなく、きよい手を上げて祈る。

イエス・キリストが十字架の上で、自分につばきし、鞭打ち、嘲笑い、命までも奪おうとしている人たちに「父よ、彼らをおゆるし下さい。彼らは自分で何をしているのかわからないのです」と言われました。

これこそ、この祈りの模範です。そしてその祈りによって滅びに向かっていた私も罪赦され、救われたのです。その私たちに聖書は語りかけているのです。

男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。 今週の与えられた場で、このように祈りの中で生かしていただきたいものです。