2015年2月15日(日)
おはようございます。
今日は何の日カレンダーから
▲西郷隆盛が挙兵し鹿児島を出発。西南戦争始まる(1877)
明治政府が出来て、新しい政府は次々と新しい国の形を作って行きます。
その中で、士族の立場は微妙でした。
特に官軍側についた武士たちは、明治政府の考え方とは相いれないものを持っていました。
この維新が自分たちのためにあると、武士の世が継続すると、考えていたように思います。
徳川幕府が、薩長土肥を中心とする官軍側の幕府に代わるぐらいに考えていた人々もあったでしょう。
武士の身分はそのまま残ると考えていたし、自分たちの所属する藩は残り、藩主であるお殿様もそのまま残り、武士の時代が続くと、漠然と考えていた人々も多かったはずです。
特に維新の中心となった薩摩藩の武士は、自分たちの時代がやってきたと考えて当然です。
しかし、この明治維新はもっと違った時代になりました。
各藩の時代ではなく、日本は一つの国となる・・・・・。
廃藩置県がなされました。
武士と言う特権階級はなくなり、四民平等になる。
農民であっても徴兵制によって兵隊になる。
武士の今までの俸禄はなくなる・・・・。
廃刀令によって刀を持つことも禁じられ、武士の魂と言われた刀を差すことは禁止されます。
断髪令により「ちょんまげ」も禁止です。
武士は士族と呼び方が変わります。
士族にとって、今までの武士としての誇りも、特権も失ってしまいます。
明治維新の主役であった薩摩藩の武士(士族)たちの不満は募ります。
彼らのカリスマ的な大将は西郷隆盛でした。
現実に、当時陸軍大将という最高の位には西郷隆盛しかいませんでした。
その西郷が士族の不満を代表して、明治政府に働きかけた士族の立場と名誉を守る考え方は、新しい政府によってつぶされてしまいます。
西郷と大久保の戦いとも言われますが、大久保利通は親友である西郷隆盛と新しい国の形のあり方という所で、対立するのです。
具体的には征韓論で西郷は敗れ、
「こんな国を作る気持ちはなかった」と失望の内に、日本でただ一人の陸軍大将の肩書を持ったまま、鹿児島に帰ります。
西郷の人気はすごいものがあり、多くの薩摩士族が鹿児島に帰ります。
ただ新しい政府のために鹿児島県人の中でも農民などが徴兵によって兵隊になったり、警視庁の警官になったりして、鹿児島県人も二つに分かれます。
鹿児島に帰った西郷は、特に不満を爆発させる事は考えず、ほぼ引退生活のような隠遁生活に入ります。
しかし、人望のある西郷を慕って、薩摩士族は集まって来て、「私学校」を作ります。
この私学校がやがて力をつけて来て、ついには不満士族の反乱となってくるのです。
その前に日本の各地で不満士族の反乱はありました。
いずれも官軍側についた藩の士族たちの乱であります。
自分達が勝ったのに、自分たちは冷遇されているとの不満が爆発したのです。
その最大のものが、この時代の最高のカリスマ性をもった西郷隆盛を頭とする薩摩士族の乱。
「西南戦争」と言う事件です。
これは明治の時代になって、最後の日本の内乱でした。
西郷は、この事を考えてはいなかったと思いますが、不満士族の心情を偲び、彼らのみこしに担(かつ)がれる事を良しとしたのです。
勝つ見込みのない戦い。
新しい時代に逆行する戦いである事を知りながら、戦争に踏み出したように思えます。
その西郷隆盛が、実際に鹿児島で兵をあげて、鹿児島から熊本城に向かって出発した日。
それが明治10年2月15日 138年前の今日です。
新しい時代が始まる時、その時代を逆行させようとする戦争
薩摩にとっては、同国人同士の悲惨な戦いになりました。
また日本にとっても同国人同士の内乱であったのです。
この内乱・・・・・。その背景には人間の意地とか、プライドと言うものがぶつかっています。
冷静に、愛を持って語り会えば済むことが、実際には蛮勇というか、景気のいい。武士の誇りとか、大義というか、忠義とかによって戦いへと向かって行く歴史を見ます。
避けられなかった戦争であったと言えばそうです。
人間の罪は、このような内乱を繰り返してきたのです。
私達は、今も、世界に向かってでも、景気の良い、蛮勇と言うか誇りを守ろう!というような言葉に導かれて、本来、人が絶対にやってはならない、人が人を殺し合うと言う戦いを始めようとしているのではないでしょうか。
西南戦争の開始 それが今日は何の日でした。
今週も皆様の上に神様の豊かな恵みと祝福がありますように心からお祈りいたします。
今週の暗唱聖句と解説を送ります。