聖書の言葉です。 | 牧師剣士     (堺育麦キリスト教会牧師)

牧師剣士     (堺育麦キリスト教会牧師)

48歳から28年ぶりに剣道再開。
すっかりはまってしまいました。
57歳で五段をいただきました。長年クリスチャン剣士でしたが、2010年11月に牧師になりました。これからも神と人に仕える者となっていきたいと願っています。剣道修業も続けていきます。

おはようございます。2015年明けましておめでとうございます。

今年も宜しくお願いいたします。


さて、今日は何の日カレンダーから

源義朝、討たれる(1160)


源義朝(よしとも)は鎌倉幕府を開いた源頼朝(よりとも)のお父さん。義経(よしつね)のお父さんでもあります。


聖書でも系図は大切に語られますが、日本の歴史の中でも系図は大切に語られています。

血統と言うものの力と言うものの不思議な力を感じます。

イエス様が生まれたのは、貧しい大工の子ヨセフの子としてです。今は田舎の小さな町で目立たない人。

しかし、系図を見ると、イスラエルの王 ダビデの末裔なのです。

マリヤさんも系図によるとダビデの末裔

世が世ならば、由緒ある家系にイエス様はお生まれになったのです。

その事を新約聖書の一番最初 マタイの福音書には書かれています。


それはさておき、1160年の今日 源氏の武士の棟梁 源義朝(よしとも)は平清盛によって討たれます。

実際は、平治の乱で平家と源氏の戦いになり、敗北し、追われて逃げる中で落ち武者刈りによって殺されるのです。


この源義朝(よしとも)は、平安時代の公家文化、天皇の支配の文化の中で、武士が台頭してきたときの一人です。


少し前の保元の乱では平清盛と共に、組んで武士階級の力をつけて行きます。

この戦いでは、彼は自分の父、源爲義(ためよし)を殺しているのです。


親子での戦い。子が親を殺さなければならなかったと言う事の厳しさを思いますが、戦国時代の下剋上の時にも良くあります。


親を殺し、源氏の嫡男 棟梁として坂東武者の力が大きくなっていきますが、

共に戦った平家に滅ぼされるのです。


このあたりは、源氏と平家の覇権争いの様相があります。

平清盛は、源義朝を殺した後、「平家にあらずば、人にあらず」と言うほどの繁栄を見ますが。

義朝の子ども 頼朝(よりとも)、義経(よしつね)を幼い子供として生かしておいた事が、後になって、その源氏の血統を担いで源氏の反撃が起こってくるのです。


たとえ落ちぶれ、伊豆の孤島に流されようとも、時が来て、頼朝が鎌倉幕府を作るようになる。


このあたりの歴史には、殺伐とした、親殺し、子殺し、肉親同士の戦い・・・・。人間として平和とは程遠い、戦いが繰り返されるのですが。

ロマンも感じるのです。

人の歴史の中で私達は何を学んでいけばいいのでしょうか・・・・。

なんとなくそんな事を思いました。


今日はその中でも、源氏の棟梁 源義朝(よしとも)が殺されて、平家の世の中になり、源氏にとって万事休す。全くの希望もないと思われた、中からやがて源頼朝が挙兵し鎌倉幕府を作る事になる。

お父さんが殺され、幼い子供が残っただけのような中からも、命は残っている・・・・。そんな歴史の不思議さを覚えさせられました。


今週の暗唱聖句は


木には望みがある。たとい切られても、また芽を出し、その若枝は絶えることがない。

                ヨブ記147

を選びました。



201514

今週の暗唱聖句と解説




木には望みがある。たとい切られても、また芽を出し、その若枝は絶えることがない。

                ヨブ記147


 このみことばは旧約聖書のヨブ記という所に書かれています。たとえ切られてもそこに根があれば木は再生すると言うことです。私は献身した時に植木職人を5年間ほどしていました。と言っても全くのど素人。何にもわかっていませんでした。葉刈りも最初は掃除ばかりでしたが、やがて剪定をさせてもらえるようになりました。

 百日紅なんかはその年に伸びた枝は、全部切ってしまいます。まるではげ坊主。落葉樹にはそのような剪定が多いのですが、やがて春が来ると芽が出てきます。

 たとえ切られて、何にもないようになってもやがて芽が出てくるのです。大木を撤去する時などは、木を切るだけではダメです。根が残っていればどんなに幹が切られてもやがて芽が出てくるのです。

 良く草抜きをさせられましたが、上を抜くだけではダメで、根のすべてを抜かなければやがて草は生えてきます。

 私達の人生もすべてが失われたように思える時もあるかもしれません。豊かに実った実を取られ、生い茂った枝も落とされ、幹さえも根元から切られ、見る影もないようになってしまう時もあります。

自分の栄耀栄華もすべて失ってしまうような事もあります。しかし、根が残っているならば、どんなに見た目は悪くとも、やがて芽を出してくるのです。そこに命があるからです。

 人生は切られてから勝負が始まるのかもしれません。

切られても、切られても、やがて新しい芽をだす。その若枝は絶える事がない。

 自然が私達に教えてくれています。

その命の源である、根が取られない限り、やがて新しい芽が出るのです。

 イエス・キリストは十字架にかかり、私達のすべての罪を背負って罰を受けるために死なれました。葬られました。しかし、神のいのちがイエス様を復活させてくださりました。新しい芽を出してくれました。私達もキリストにある時、たとえ切られても、新しい芽が吹きだし、大きな枝となっていくのです。