引き分けの美学 | 牧師剣士     (堺育麦キリスト教会牧師)

牧師剣士     (堺育麦キリスト教会牧師)

48歳から28年ぶりに剣道再開。
すっかりはまってしまいました。
57歳で五段をいただきました。長年クリスチャン剣士でしたが、2010年11月に牧師になりました。これからも神と人に仕える者となっていきたいと願っています。剣道修業も続けていきます。

今日、道場に稽古に行くと、N辻先生から、「この間の試合はどうやった?」と尋ねられた。「結構、攻めていたけど惜しいところで、勝ちきれず引き分けでした・・・・。」と説明した。

「内容的には勝ってましたけどねえ・・・・。」と話していると、N辻先生が、「相手の人もそう言ってるかも知れんねえ」と笑いながら言われた。

そんなわけはない!私の方が分は良かった!と思ったが、「そうかも、知れませんね」と笑って返した。


そこで、ふと思った。そうか!勝負がついていないわけだから、相手の人も「私が勝っていた!」と思っていたかもしれないということである。

そうすると、一つの勝負で両方がある程度いい思いをもっているわけである。

ひょっとすると、私が勝っていた。いやもう一度やれば必ず私が勝っていた・・・・。と思うのは自由なのである。

そして、案外そう思っている人が多いはずである。ある程度の反省もあるが、徹底的に打ちのめされているのでもないから、希望もわいてくるわけである。

そうすると、両方に希望があるわけだから、引き分けって素晴らしいことだと思った。

人生も、勝ち組、負け組とか言う言葉が最近はやっているが、この世のことはすべてが確定しているのではなく、引き分け続きかもしれない。そうすると、考えようによっては希望がわいてくる。

完全には結果はでていない。

神さまは一人ひとりの人生の場面を引き分けにしているように思います。すべての結果は、死んだ後に分かるかも知れないが、この世の出来事は全て引き分けのようなものです。

完全に勝ってもいないし、負けてもいない。  どこかに希望がある。人と人とも引き分けであるといい。どちらも、痛みもあるが、それ以上に希望がある。どこかに今度こそはきっと勝てると思える。


サッカーでは引き分けは勝ち点1であるのは、引き分けはいいことだと思っているのかな


剣道に引き分けがある。引き分けの中に、勝負ではない、希望が、美学がある。

ちょっと生ぬるいかもしれないが、引き分けって素晴らしいなあ。


でも、勝ちたい!   けど引き分けは日本人にはあってるかもしれないなあと思いました。