ドルトン・トランボ | 小野明良の【【【俺の事はホットケッ!】】】

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職業:俳優・映画監督・王様・沼部「Wild Bunch」
#小野明良 #桜坂物語 #ワイルドバンチ

 

2016年08月16日(火)・「ドルトン・トランボ」
 映画「トランボ」(原題:Trumbo )

 上映館は少ないし、上映回数も一日一回。
(早くいかないと上映打ち切りだ、終わっちゃう)
 TOHOシネマズ川崎、その日の上映は17:00の回、一回のみ。

 ダルトン・トランボ(Dalton Trumbo, 1905年12月9日 - 1976年9月10日)と言うUSAの脚本家、映画監督、小説家の実話。

 1971年度作品「ジョニーは戦場へ行った」(原題:Johnny Got His Gun)と言う作品の監督脚本家として初めてその名前を聞いたとき、日本では”ダルトン・トランボ”と言わず”ドルトン・トランボ”と表記していた記憶が有る。
 しかし、最近の表記は、”ダルトン・トランボ”で統一されているようだ。

 私が敬愛するスティーヴ・マックイーン(ちなみにスティーヴ・マックイーンもスチーブ・マックイーンと表記されていた時期が有る)主演の映画「パピヨン」の脚本も手掛けた人だ。

 しかし私は、ドルトン・トランボが映画「ローマの休日」の脚本を書いていたとは知らなかった。
 私をはじめ人々がその事実を知らない事には、理由があった。トランボは、
「赤狩り(Red Scare)」
(日本ではその弾圧を「赤狩り(レッド・パージ)」と呼んだ)
による弾圧と追放を受けて、実名で作家活動することがままならず、偽名で活動していたからである。

 今となっては、歴史的汚点と言われる”赤狩り”ではあるが、当時はそんな風潮だったようだ。
 第二次世界大戦が終わって米ソの冷戦がはじまり、アメリカおよび西側諸国による静かな攻撃対象が共産主義者という事になった。
 チャップリンもこの対象になり長い事海外逃亡をしていた時期が有る。

 そんな時代を強く生きぬいたドルトン・トランボが名誉回復するまでの生涯を描いた映画「トランボ」。
 見ごたえがあった。
 人に薦めたい映画だ。


 ―――私が思うに・・・今の人類は、「自由と平等」を求めている。
 様々な形で、「自由と平等」を求めている。
 そのことに公に反論がある人は、いないと思う。
 自己利益のみを求めて世界を蹂躙する商売人たちも、建前上は「自由と平等」を求めている。
 地球の富の独り占めを目指す愚か者たちも、建前上は、「自由と平等」を求めている。
 商売の自由、征服と支配の自由と叫びゆがんだ自由を「自由だ自由だ」と振り回す。
 しかし、今、そういうゆがんだ自由の感性が叩かれる時代が来ようとしている。

 民主主義も共産主義もその究極に目指すところは大きく変わらないと思うが、その方法論に大きな・・・・180度と言ってもいいくらいな違いが有る。
 共産主義者が掲げる理想は、決して悪くないが、彼らがその施政者としてあまりにその理想とかい離しすぎている。
 人類の感性として、今すぐ共産主義者社会を成立させるには、まだまだ人類は稚拙だと言わざるを得ない。
 このことが、民主主義による発展を是としていると私は考える。
 考え方によっては、民主主義の方がよっぽど共産社会達成への近道なのではないかとさえ思える。
 俗な言い方だが、
「マルクスの目指した共産主義社会は、社会主義国より日本の方が近い」

 そんな矛盾を抱えながら世界は、未来に向かって発展を模索している。
 赤狩りの時代に弾圧を受けた人たちの意見を今ここに並べても、現代においては、きっと弾圧や迫害を受けるような過激な意見ではないと思う。

「自由と平等」を求めつつ、早過ぎる「自由と平等」は、人には受け入れられないという矛盾。
 人間、人類の感性は、自由と平等を受け入れるには、まだ下地が出来ていない。
 既得権益にしがみついたり、ズルをしたり―――それが人間らしいと言えば人間らしいのかもしれないが―――、そういった不正を是とする人間が減って行かない限り、もしくは悪と分かっていて悪を働く人間がいなくならない限り、共産主義においても民主主義においても理想の実現は不可能だろう。


 あまりに強烈な理想を叩きつけられると人は、自分の牙城を壊されると恐れ、たとえ理想であっても理想を排除する。
 人は、自己利益を損ねる理想を排除する。
 この感性を、矯正していかない限り、理想の実現は難しいだろう。

 権力者は、権力の強化を図り自ら権力を手放すことは無い。
 資本家は、富を独り占めしたがる。
 資本家のために働く者は、資本家の教育を受けて自由と平等がなんであるかを知らない場合が多い。
 組合を作り自分の立場を良くしようとする者もいるが、彼らはそれこそ”赤扱い”されるだろう。


「赤狩り」の時代に、急進派とか左翼と言う扱いを受けて不当に扱われた人が、たくさんいた。
 それこそ、民主主義がなんたるか、共産主義がなんたるかを知りもせず、政府瓦解を恐れた妄信的な考え方の人間が国家反逆罪的な罪を彼らに負わせた。

 今でも、反共を標榜する人たちの意見は、「赤狩り」の時代と変わっていない。それはもう無知とさえいえる。
 闇雲に共産主義が悪いと決め付けて、それに反対する事が正義だと、勘違いしている。
 きっと[共産主義=旧ソ連、現北朝鮮etc.]と言うような、権力者による閉ざされた管理国家をイメージしているのだろう。
 しかしそれは、共産主義の理想形ではない。共産主義を謳った国家権力主義の独裁国家である。

 今のところ地球上に共産主義や社会主義による理想的国家は無いが、それは人間の狡さ愚かさがその成立を妨げている状態と言っていいだろう。それは民主主義にも同じことが言える。
 私に言わせれば、共産主義、社会主義も民主主義とその理想とするところは、似たようなものだ。
 私は、現代において理想実現のための方法論―――、民度に合わせた方法論としては、民主主義が一番適していると思っている。

 しかし、だからと言って共産主義が否定されるべきものだとは思っていない。
 彼らの主張は、理想が高いゆえ方法論を伴わず民度が付いていけていないという事だ。

 ―――映画「トランボ」を観て、そんなことが去来する。


 当時、過激思想の不穏分子として扱われたが自分の正義を貫いたトランボは、名誉回復して再評価された。
 それは、民度が少し上がってきたという事だと私は、考える。
 たとえばトランボの作品やチャップリンの作品を見て、今、
「こいつらは危険だ」
と思う人がいるだろうか―――きっと、いないだろう。
 人間味あふれ正義を貫く人間がそこには描かれている。
 ―――自由と平等そして平和を求める事、それを意図的に悪と結び付け攻撃した人間の思想の方が、実は悪だったのではないだろうか・・・多分、当時、「国を守るため」と言う信念でやっていたのだとは、思うが。
 しかし赤狩りが、人としてのやり方を外していた事は、隠せない事実だ。

 民主主義と言う階段をゆっくり上って、いつかみんなの理想とする社会を築き上げた時、そこは、民主主義も共産主義も社会主義もない社会になっているではないだろうか。


 まあ、そんな御託は並べる必要もないか・・・・「トランボ」、良い映画でした。