第9話 ウォーター


 タイルを叩くシャワーの音を小耳に入れながら、瑞希は忙しなく一階と二階を行き来する。
 使ったことのないバスタオルと頭を拭く為の小さめのタオル、それに福袋に入ってた大きめのシャツは……乾燥機に入れた下着はあと五分程で乾くだろうな、うん。
 これで準備はできた。冷蔵庫には冷えたジュースもあるし万全だ。
 一息つこうとリビングに向かうと蒼圉の呑気な笑い声が聞こえて来た。偉そうにソファーに座って麦茶をすすっている。
「あんたいつの間に入ってきたの?」
「今さっき」
 目線はテレビのままで、それだけ言うとまた乾いた笑い声をあげた。
 三人は一五分前くらいに家に着き、神田を風呂場に放り込み、蒼圉にシャワーを浴びてから家に来るように言った。けれど、蒼圉がまさかこんなに早くくるなんて瑞希は思ってもいなかった。本当に体を流したのだろうか? ただドライヤーで頭を乾かして着替えただけじゃ……。そう思って瑞希は目を閉じ、蒼圉の頭に鼻を寄せた。
 ……甘い柑橘系の臭いが口元まで伝わった。
 ちゃんとシャンプーしてる。青リンゴガムのような香りがしていい感じだ。
「瑞希……変態か?」
 目を開くと、蒼圉が首を回し、横目で懐いの眼差しで見つめていた。
「そんな、んな……。バカ言ってんじゃないよ。ただ来るのが早いから本当にシャンプーしてるか気になっただけよ。神田さんにだらしない男と思われちゃ駄目でしょ、それをチェックしてあげたのよ。だいたい髪の匂いを嗅いだだけで変態なんて決断が早すぎるでしょ? もっとあれよあれ! 下着を盗むとか風呂を覗くとかそれくらいなら文句はないけど」
「そうか、瑞希の変態ラインがすごく低いことは理解できた」
「でしょ? あたしは心が広いのよ。……てかあの人が帰ってくる前に出て行かないと、あとで文句言われるんだからいつでも家を出れる心構えでいなさいよ」
「どんな心構えだよ」
 蒼圉の突っ込みを無視して、瑞希は机の上にあるボールペンとメモ用紙を取り、つらつらと書き始めた。
『新品のバスタオル、タオルを使用しました』
 面倒だけど、こうでもしないとあとで何か盗んだとかうるさいから仕方がない。
 そのメモを持ってキッチンに向かうと、湯気を立てた神田がちょうど風呂場から出て来たところだった。
 ちゃんと瑞希が用意したシャツとハーフパンツを着ていて、瑞希は少しホッとした。
 神田はモデルだからこういうファッションについてうるさいかもと心配していたのだけど取り越し苦労だったみたいだ。
 瑞希が生まれる前に放送されていたタコとピーナッツのキャラクターという訳のわからないコンビのシャツと、紺と緑のチェックが入ったハーフパンツ。想像では最悪の組み合わせのはずが、神田が着れば、こういうのもアリかと思わさせる。いや、実際はナシなのだけど、彼女のスタイルと整った顔があれば底辺の洋服も輝くのだろう。なぜモデルは手足が長く整った顔をしなくてはいけないのか、神田とこの服を見れば誰でも理解できる。
「どう、体は暖まった?」
 まるで絞り立てのマンゴージュースを飲み干しご満悦といった顔で神田は言った。
「ありがとう、お腹いっぱい」
 お腹いっぱい?
 もしかしてシャワーの水飲んでた訳じゃ……あんなガス臭い水をお腹いっぱい? やっぱり変……と言うより危ないかも、神田桜子。
 瑞希は冷蔵庫にメモをマグネットで止めてから開いた。
「どんなジュースが良い? どれでもいいよ」
「ほんと? ありがとう」
 嬉しさのあまり飛び上がりそうな声を出して、神田は冷蔵庫の中を見た。
 そして迷いなく透明のペットボトルを手にした。
「そんなのでいいの? オレンジとかコーラもあるよ」
「いいの。これ最高」
 ダイエットしているのか? 神田が最高と言って取り出したのはミネラルウォ―ターで、ラベルに「六甲の美味しい水」と書かれている。
 上機嫌な神田は、首で4拍子をとって童話チックな鼻歌を歌いながらキャップを回し、勢い良く飲み干した。
 お腹いっぱいと言いながらも一気に飲み干したが、飲み終えた顔は不満そうで、「ごちそうさま」と言う声も明るさを帯びていない。明らかに飲まなければ良かったと言いたげだ。
「水じゃ物足りないでしょ。だからジューズにしろって言ったのに」
「違う、これ水道水」
 そういうことか。ケーキ買ってきてよ、と言って用意されたケーキがコンビニ産という心境に似ているのかもしれない。
 それでも全部飲んだってことは相当水が好きなんだろうな。
「そう気を落とさないでよ。これからいい水たくさん飲ませてあげるから」
「どこで?」
「あたし今からバイトなのよ。喫茶店やってるの。だからそこでお腹壊すまで飲ませてあげる」
 瑞希の言葉に一瞬神田は表情を和らげるけど、思い出したように窓から外を見て呟いた。
「嫁入りは?」
 そうだった、神田ににわか雨が降ると狐の嫁入りが始まって、それを見るとキツネにされるなんてバカみたいな嘘をついたんだった。
 やっぱり嘘でした、なんて通用……しそうだけど、確信は持てない。ここで失敗してしまったらわざわざ家まで呼んで着替えさせた意味が無くなってしまう。
「外出るとキツネになるんだよね」
「だね……バイト行けないよね」
 不安を和らげようと微笑んでも神田の表情は暗いまま。この調子だとバイトにすらいけなくなってしまう。どうしよう……。
 すると居間のテレビの音が消えて、ドアを開く音がした。瑞希の耳がわずかに動く。
「どうした? 出て行かないと叔母さん帰ってくるんだろ?」
 振り返ると蒼圉が扉を半分だけ開いて顔をのぞかせていた。
 これは思ってもないグッドタイミング。やっぱり瑞希には神田の相手は無理だ。けど何故か蒼圉は神田のことを理解してるみたいだ。……何故かって好きだからに決まってるけど。
「キツネが出るって言うから外に出てかないのよ」
「なんだ、そんなことかよ」
 蒼圉とってはどうでもいいことかもしれないけど、瑞希にとっては大きな問題だ。脳内構造不明の相手を誘導することは、神経も使うし頭も使う。それに瑞希にはタイムリミットがある。あと半時間以内に家を出ないと、叔母さんが帰ってくるかもしれない。
 瑞希が頭を悩ましていると、蒼圉が神田に近づき、窓を指差した。
「実はもうここ通って行ったんだよ、キツネ」
 さすがの神田も蒼圉の言葉を理解できないようで首を傾げている。もちろん瑞希にだってわからない。
「キツネの嫁入りっていわば大名行列みたいなもんで、練り歩くルートって決まってるんだよ」
 大名行列って……想像で物を言い過ぎだろう。
「で、神田が風呂入ってる間にもうこの街を通り過ぎたんだ。だから外出ても大丈夫」
 まあ、にわか雨に嫁入りが行われ危険だという話を信じた神田にならこの説明で通じるかもしれない。ほんと、そんな出任せをすぐに思いつく蒼圉には尊敬もするし、軽蔑もする。
 納得するだろうと思えた神田は、それでも表情を強張らせ、疑いの目をこちらに向けている。さすがに嘘がすぎただろうか? 
「何故京橋知ってる? キツネ通り過ぎたの。そんな情報どこにものってない!」
 それをいわれるとそうだ。キツネになるかもしれないなんて超災害に対し、ニュース速報もどこを行列するかという情報も入ってこないのはおかしい。
 でもそれをおかしいと言う前に、この話の始まりからすべてがおかしい。
 それでも蒼圉はひるまず、何故か自慢げな顔をした。
「実は俺、今日嫁入りしたキツネの知り合いでさ、だからルート知ってたわけ」
 そんな説明で納得するならご都合主義もいいところだ……と呆れて神田の表情を見ると、瑞希は更に呆れた。神田は嬉しそうな顔で蒼圉に握手を求めていた。
「キツネさん知り合い? ……よかったありがとう」
 神田をすっかり手中に収めている。……やっぱりこれは蒼圉の愛が生んだ力なんだろうか? 確かに凄いことだけど、もっと愛の力は違う部分に有効活用した方がいいと思う。
 けれど解決したことは間違いないので何の文句も言えない。
「じゃあいくよ、忘れ物はない? 神田さんの制服はまだ濡れてるけど畳んでビニール袋入れたから、それに荷物も全部玄関置いたから」
「お世話になりました」
 神田のお礼に瑞希は頷き、ドアを開いて玄関に足を進めた。廊下を歩いていると、甲高い自転車がブレーキをする音が外から聞こえてきた。もしかして……瑞希は更に足を速く進め、玄関の扉を開くとやっぱり、
「あら、いらっしゃい瑞希さん、汚れた家でごめんね」
 友達の家から貰って来たのだろう、甘い匂いがする紙袋を手に提げた叔母さんが粘着質のある泥のような声を発してドアの向こうに立っていた。
「そちらこそ、いらっしゃい。……っていちいち鬱陶しい、今から出てくんだからいいでしょ」
 また嫌味の言い合いが始まるかと思うと胸が痛くなって暗く淀んだ気分になってしまう。でも攻撃されたからには反撃するしかない。言われっぱなしは瑞希の性に合わない。
 叔母さんが第二撃を放とうと口を開くと、後ろから蒼圉の声が聞こえて来た。
「あっ叔母さんどうもっす。お邪魔して申し訳ないです」
「いらっしゃい蒼圉くん。おもてなしできなくってごめんね」
 ここで叔母さんは外面モードに切り替わったのか、声の高さが二つ程上がる。
「その隣の子は彼女? 奇麗な子ね、いらっしゃい」
 瑞希は彼女と言う響きに一瞬胸が締め付けられる。まだそういう話しを神田としていないだけに、神田が蒼圉を意識して……好きになってしまうかもしれない。
 これだけ以心伝心してるんだ。神田はもしかすると蒼圉に好意を持っているかもしれない。
 叔母に対する神田の返事に変な期待感を瑞希は持っていたけど、神田は気持ちのいいくらい、というか聞こえていないと言う風に叔母の問いをスルーし、さらに瑞希を追い越し叔母に一瞥もしないで出て行ってしまった。
 唖然とした叔母に、慌てながらすかさず蒼圉がフォローを入れる。
「あいつとはそう言う関係じゃないっすよ。でも無視したのは怒ってるわけじゃなくって多分緊張してるんだと思います。初対面はキツいって言ってましたから」
「ふっ」瑞希は思わず笑い出してしまった。
 瞬間叔母の尖った視線が瑞希の目を刺す。
「何がおかしいのよ、あんた」
 そんなことは決まっている。愉快だからだ。あれだけ華麗なスルーは未来永劫残すべきだろう。きっとあんたの人の黒い部分がにじみ出たのだろう。痛快だ。これ以上面白いことがあってたまるか。ざまあみれ。とは言えず、一呼吸置いて瑞希は口を開いた。
「別に? 人の好い叔母さまでも無視されることなんてあるんだ、と思いまして。大したことじゃないです」
 そう言いながら瑞希はスニーカーを履き、神田と同じように一瞥もしないで通り過ぎようとした、がそこは意地の悪い叔母だ。神田のようにやすやすと通してくれるわけがない。
 叔母は絶妙のタイミングで瑞希の耳元に顔を少し寄せ、蒼圉に聞こえないように呟いた。
「あんた何も取ってないでしょうね」
 その言葉に瑞希は手が出そうになるけど、ここで殴れば今までの我慢が無駄になると言い聞かせ、拳を握りしめるだけで留めた。が、その分言い返す。
「うっせぇっ。他人に好い顔しようと気持ちの悪い声出しても無駄なんだよ、バカ。近所で避けられてることに気付いてないの? だとすれば相当御気楽な人間ね。せめてその汚い化粧で固めた面から直していけば近所の人も心を開いてくれるでしょうね。じゃ、おじゃましました! 
 って蒼圉! ボーッとしてないで行くよ」
 瑞希に怒鳴られ蒼圉はビクッと体を一瞬震わせ、素早く玄関の叔母に頭を下げ、そそくさ出て行った。叔母の方は顔を赤らめ、唇を噛み締めていた。
 言い返したくても言えないのだ。人の目ばかり気にしている叔母は、他人がいると良い奥様像を造ることに何よりも神経を注ぐ。いつもなら論争という名の戦争まがいが行われているところだけど、ここは蒼圉がいることを手玉に取って瑞希は言いたい放題したわけだ。
 微量な雨を体に受けて、瑞希は笑った。久しぶりに叔母と話してすっきりしたかもしれない。ここのところ勝敗がどちらともつかずだったから……でも普通の家族って、言い負かしてすっきりしないしないよね。それはまあ仕方ないか。
 見上げた空はやっぱり雲少しで晴れ渡っていた。雲の縫い目から差し込む光が眩しくって、でも小粒の雨が降り注いでいる。この調子なら虹がかかりそうだ。
 ……やはり自分の心に嘘はつけないようだ、心の底に砂利が溜まったような感覚がして、完全にスッキリしたとは言えない。どうでもいいことなんだろうけど、どうでもよく思えない。
 それは前方で瑞希を呼ぶ神田を見て思う。
 神田の笑顔と呼び声は濁ってなくて、子供みたいに透き通った声で、きっと道路の真ん中で大声出して瑞希の名を呼ぶくらいだから、心も少年や少女みたいに汚れていないのだろう。
 それに神田の小さな顔に似合わないけど凄く似合ってる体。すごく美しい。
 世の中の不平等さに泣くにはまだ若いと思いつつも、瑞希は膨れっ面を浮かべ全てを彼にぶつけた。
「早く来いって言ってるでしょ、蒼圉!」