第2話 「冷麺」
田端瑞希
6年前に見た三日月を思い出させるような色合いと形状の三日月が今夜は空を飾っている。三日月なのに満月のように明るいそれは、瑞希をなつかしい気持ちにさせる。
初めて家出をした6年前。勢いで家を飛び出して、無我夢中で住宅街を駆け回った。胸にあふれる気色の悪い感覚を少しでも消す為、ひたすら全力でコンクリートを蹴って息を切らした。けれどもこの感覚は薄らぐことがなく、解決策の見つからない瑞希は泣くことしか出来なかった。
疲れ果てた先で見つけた河川敷の公園。誰もいない、貸し切り状態。でも当時の瑞希は1人で遊具を使って遊ぶという惨めな思いはしたくないと、迷うことなくベンチに腰を下ろした。お母さんの身長と同じくらいのすべり台。お父さんの身長と同じくらいのブランコ。そう比喩することで寂しくて泣き叫びたい気持ちを、涙を流す程に抑えながら、三日月のもと、まだ浅い夜が明けることを待った。
すると階段を下りる音と雑草が何かと当たり、ササッと風で揺れるような音が聞こえた。
瑞希は条件反射的に、座っていた体をかがめ、見つけられないよう、更にベンチの背もたれに隠れるように寝転んだ。
もし見つかってしまうと誘拐されるかもしれないなんて突拍子もない考えが脳裏をよぎる。その考えは更に連鎖され、幽霊、野良犬、通り魔。ネガティブな気持ちは一度植え付けられると、中々摘み取ることは出来ない。
砂利を踏む、小さな足音がだんだんと大きくなってくる。近づくにつれ、瑞希の体が堅くなっていく。けれど、この足音はどこか心地いい。聴いたことのある音だ。
足音が無くなったかと思うと、頭の方が少し沈み、なんとなく誰かがベンチの空いたスペースに座ったんだな、と気付く。その人は大きな声で笑っていた。
「何でこんなとこで寝てんだよバーカ。ってよく寝てられるな。さすが無神経」
『無神経』という言葉が少し鼻にかかり、寝たフリをやめて殴ってやろうかと思ったけれど、その感情はすぐに消される。
「まあいっか。こんな夜に外に出れるなんてかぶと虫取りに行く時くらいだもんな、付き合ってやるか」
そう言うと彼は、夜風を撫でるようにそっと瑞希の頭を撫でた。髪が乱れないようにゆっくりゆっくり、時の流れを意識するように、ずっと。
そっか、今夜の三日月が6年前の三日月と似ていると感じたのは、逃げ出して彼が来てくれたあの日の雰囲気と似ていたからだ。
って何で窓から三日月を眺めて、センチメンタルになりながら思い出話しを、思い出さなきゃならないのかというと、勉強を教えてくれと言いながら、一向に顔を出さない蒼圉のせいだ。
公園から戻り、蒼圉の家にそのまま直行したところ、蒼圉のおばあさんが玄関から杖を付きながら出て来て、足が痛いから接骨院に連れてってくれ、と言うものだから、勉強会は中止。蒼圉は帰って来たら窓から呼ぶわ、と言って自転車の荷台におばあさんを載せて、接骨院に向かった。瑞希は心の準備ができないまま、仕方なく我が家に戻ることにした。扉を開くと夕食のカレーのいい匂いがするけど、叔母とあんな関係ではとても食にありつけるわけがない。仕方なく公園で蒼圉に貰ったスポーツドリンクをちびちび飲み、ノートと教科書に集中することにした。
一時間半程経つと、蒼圉の部屋の灯りがカーテン越しに確認できたので、声をかけようと思ったけれど、帰って来てすぐ声をかけると、待ち望んでいたことに気付かれてしまいそうなので、それから半時間後、瑞希は腕を伸ばし、蒼圉の部屋の窓をノックした。
が、一向に窓を開ける様子はなく、ついに日付が変わった。最初は半時間おきのノックだったけど、時が経つにつれて、20分、15分、と短縮されていき、ついには5分おきのノックとなった。それでも姿を見せないと言うことは、もしかして何か蒼圉の身に起きたのかもしれない。例えば、おばあさんは永遠に歩けなくなると医者に宣告されて落ち込んでいるとか、瑞希を公園に迎えにきた際、かいた汗で濡れたシャツを着ていたせいで風をひいて、テスト前日なのに寝込んでいるのかもしれない。だとすればそれは瑞希の責任だ。
急に心配度が増して、窓をノックではなく叩いてしまう。それでも反応がない。可能性が少ないけれど、施錠されていない可能性を見込んで、窓をスライドさせると、蒼圉の散らかった部屋が目に映り、ついでに蒼圉の姿も映った。
映らなければ良かった。
瑞希は窓に身を乗り出し、蒼圉に貰ったスポーツドリンクの空になったペットボトルを手に取り、大きく振りかぶる。
キャップの部分が丁度、仰向けに寝転がる蒼圉の鼻に当たり、瞳に涙を溜めて蒼圉は勢いよく起き上がった。
「イタイ……。ってこのペットボトルは、ってやっぱりお前か! 人の部屋を勝手に覗いて攻撃までしでかすとは」
「うっさい! あんたが勉強教えてくれって言ったくせにいつまでも寝てるから悪いんでしょうが!」
深夜だと言うことを忘れて、ついつい声を荒げてしまう。
「ほんとにかわいげのない女だな。片足窓に乗っけてるとパンツ見えるぞ」
「見えるか! パジャマなのに」
「ほんと、だっさくて色気のないパジャマだこと」
「なんで高校生が色気のあるパジャマを着る必要がある!」
ださいパジャマだと言うことは否定できない。いかにもイチキュッパな赤い生地にひまわりの花柄。正直スウェットにシャツの方がマシだ。
「目の保養……って瑞希じゃネグリジェ来ても無理か」
寝起きだと言うのに憎まれ口に淀みがない奴だ。
「蒼圉を見ていると、性善説を唱えた孔子達がバカに思えてくるよ」
「ああバカだ。人間なんて悪の塊だ。善意なんて教えてもらえないと出来ない。そしてその善意すら、相手を手なずける為の方法の一つだし、或いは弱い者を助けて、自分はいい人間だ、なんて思い込むためでもある」
「随分とひねくれてるわね」
「瑞希もな」と鼻で笑う蒼圉。
確かに、否定できない瑞希も蒼圉に言えた口じゃない。
「あんた帰って来てずっと寝てたわけ?」
「ん? ああ、気付いたら寝てて、気付いたらペットボトルが鼻を直撃」
赤くなった鼻を、いい子いい子と子供をあやすように撫でて、眼ではきっちり瑞希を睨む。
「寝すぎよ、あんたってコアラみたいね」
「かわいいだろ?」
「どこが? お菓子とぬいぐるみのコアラ以外はかわいくないし、無愛想だし、臭いし、そう言う点を評価してるのよ」
「どういう点だ」
言って、蒼圉は頭をかき、本題に入った。
「お遊びはここまでにして、教えてくれよ、正弦定理」
「仕方ないわね。全然わからないわけ?」
「ああ、全くだ」
正弦定理なんて今回のテストの初歩の初歩でしょ。それもわかっていないくせによくものうのうと寝てられたものね。
瑞希は仕方なく、数学の教科書を開き、見やすくわかりやすい様に正弦定理をチラシの裏に3問程解いて、紙飛行機に折り蒼圉の部屋に投げ入れた。
すると階段をゆっくりと上る足音が聞こえた。
「じゃあせいぜい欠点取らないようにやりなさい……。ところで、さ、あんた今日の三日月見て何にも思い出さない?」
近づく足音を気にしながら、瑞希は少し早口で蒼圉に問いかける。
「……? さあ。あんな色の感じのクロワッサンがあればうまそうだなと」
「どこが!」
バカにするよう蒼圉に言って、勢いよく窓を閉める、と同時に部屋をノックする音が聞こえた。
「瑞希さん、僕だけどちょっといいか?」
この声はおじさんだ。慌ててドアに近づき、鍵を外す。
「はい、ちょっと待って下さい。今開けますので」
開くとおじさんは上下スウェットの安価な寝間着で、それに似合った優しい笑みを浮かべていた。いつも通り。
「こんな夜中だとご近所にご迷惑だからほどほどにね」
叔母とは違い、叔父は怒った顔を想像できないほど穏和で、その微笑みは癒しという言葉以外見当たらない。蒼圉とは違い、叔父なら性善説は当てはまるのでは? と何となく思ってしまう。
「すみませんでした。ついつい。以後気をつけますので。起こしてすみませんでした」
「いや、いいんだ。まだ寝るつもりじゃなかったからね。叔母さんもまだ熟睡中……注意がてらにちょっと訊きたいことがあってね……。君が本当に――」
「取ってません!」
いきなりの瑞希の大声に、叔父は少しひるみ、笑顔を崩すけれど、すぐに戻し、
「いや、疑っていたつもりではなかったんだ。もしかして手がかりを知っているかと期待して――」
叔父の言葉を遮るように瑞希は言葉をかぶせる。
「いいんです。あたしは家族じゃないし、疑われて当然なんです。別に気にはしてません、傷ついただけですので」
「それだけって、傷ついたなら、それはそれだけですまないだろう?」
「いえ、傷なんていつか癒えるし、それに癒えなくていずれ慣れる物です。現にそうなりつつありますので」
叔父は瑞希の言葉を聞くと、少し顔を暗ませ、さっきまでの微笑みとは違い悲しみを含んだ笑みで瑞希に微笑み、「そうか……。夕食食べてないだろう? そう思ってコンビニの冷麺を買って来てあるから食べなさい。でも女性は夜中の食事って気にするかな?」
「いえ、頂きます。気を使ってもらってどうもすみません」
「すみません……か。うん、おやすみ」
叔父は呟くと、音がしないようゆっくり扉を閉め、寝室に戻っていった。
瑞希はごく少しだけど、叔父のことを好いている。叔母と喧嘩をすると、こうやって気にかけてくれるところや、叔母の手料理を食べさせようとせず、コンビニ製の物を買って来てくれるさり気ない気遣いや、そういえば、お釣りを募金する癖もあった気がする。
そういう叔父の存在が瑞希の精神を保ってくれているのかもしれない。
けれど、そうやって叔父が瑞希にかまうことで、叔母が瑞希に対し嫉妬しているということも瑞希は何となくわかっている。
高校生相手に嫉妬するなと思っていても、言えた口じゃない。だって他人なんだから。それにあたしの顔はお父さんに似ている。それも嫌われる理由だ。叔母はお母さんの妹だ。運転していたのはお父さんだから、やっぱり恨んでいるだろう。
ふと窓を見ると三日月が、さっきよりも輝きを増して眼に届く。
そうか、今夜の三日月が6年前と似ていたのは、蒼圉のおかげではなく、きっと物を取ったと疑われて家を飛び出したからだ。
6年前はお母さん、今は伯母さんか……。
暗くなった気持ちを切り替えようと、瑞希は冷麺を取りに冷蔵庫に向かった。トントンと小刻みに叩く窓を無視して。
田端瑞希
6年前に見た三日月を思い出させるような色合いと形状の三日月が今夜は空を飾っている。三日月なのに満月のように明るいそれは、瑞希をなつかしい気持ちにさせる。
初めて家出をした6年前。勢いで家を飛び出して、無我夢中で住宅街を駆け回った。胸にあふれる気色の悪い感覚を少しでも消す為、ひたすら全力でコンクリートを蹴って息を切らした。けれどもこの感覚は薄らぐことがなく、解決策の見つからない瑞希は泣くことしか出来なかった。
疲れ果てた先で見つけた河川敷の公園。誰もいない、貸し切り状態。でも当時の瑞希は1人で遊具を使って遊ぶという惨めな思いはしたくないと、迷うことなくベンチに腰を下ろした。お母さんの身長と同じくらいのすべり台。お父さんの身長と同じくらいのブランコ。そう比喩することで寂しくて泣き叫びたい気持ちを、涙を流す程に抑えながら、三日月のもと、まだ浅い夜が明けることを待った。
すると階段を下りる音と雑草が何かと当たり、ササッと風で揺れるような音が聞こえた。
瑞希は条件反射的に、座っていた体をかがめ、見つけられないよう、更にベンチの背もたれに隠れるように寝転んだ。
もし見つかってしまうと誘拐されるかもしれないなんて突拍子もない考えが脳裏をよぎる。その考えは更に連鎖され、幽霊、野良犬、通り魔。ネガティブな気持ちは一度植え付けられると、中々摘み取ることは出来ない。
砂利を踏む、小さな足音がだんだんと大きくなってくる。近づくにつれ、瑞希の体が堅くなっていく。けれど、この足音はどこか心地いい。聴いたことのある音だ。
足音が無くなったかと思うと、頭の方が少し沈み、なんとなく誰かがベンチの空いたスペースに座ったんだな、と気付く。その人は大きな声で笑っていた。
「何でこんなとこで寝てんだよバーカ。ってよく寝てられるな。さすが無神経」
『無神経』という言葉が少し鼻にかかり、寝たフリをやめて殴ってやろうかと思ったけれど、その感情はすぐに消される。
「まあいっか。こんな夜に外に出れるなんてかぶと虫取りに行く時くらいだもんな、付き合ってやるか」
そう言うと彼は、夜風を撫でるようにそっと瑞希の頭を撫でた。髪が乱れないようにゆっくりゆっくり、時の流れを意識するように、ずっと。
そっか、今夜の三日月が6年前の三日月と似ていると感じたのは、逃げ出して彼が来てくれたあの日の雰囲気と似ていたからだ。
って何で窓から三日月を眺めて、センチメンタルになりながら思い出話しを、思い出さなきゃならないのかというと、勉強を教えてくれと言いながら、一向に顔を出さない蒼圉のせいだ。
公園から戻り、蒼圉の家にそのまま直行したところ、蒼圉のおばあさんが玄関から杖を付きながら出て来て、足が痛いから接骨院に連れてってくれ、と言うものだから、勉強会は中止。蒼圉は帰って来たら窓から呼ぶわ、と言って自転車の荷台におばあさんを載せて、接骨院に向かった。瑞希は心の準備ができないまま、仕方なく我が家に戻ることにした。扉を開くと夕食のカレーのいい匂いがするけど、叔母とあんな関係ではとても食にありつけるわけがない。仕方なく公園で蒼圉に貰ったスポーツドリンクをちびちび飲み、ノートと教科書に集中することにした。
一時間半程経つと、蒼圉の部屋の灯りがカーテン越しに確認できたので、声をかけようと思ったけれど、帰って来てすぐ声をかけると、待ち望んでいたことに気付かれてしまいそうなので、それから半時間後、瑞希は腕を伸ばし、蒼圉の部屋の窓をノックした。
が、一向に窓を開ける様子はなく、ついに日付が変わった。最初は半時間おきのノックだったけど、時が経つにつれて、20分、15分、と短縮されていき、ついには5分おきのノックとなった。それでも姿を見せないと言うことは、もしかして何か蒼圉の身に起きたのかもしれない。例えば、おばあさんは永遠に歩けなくなると医者に宣告されて落ち込んでいるとか、瑞希を公園に迎えにきた際、かいた汗で濡れたシャツを着ていたせいで風をひいて、テスト前日なのに寝込んでいるのかもしれない。だとすればそれは瑞希の責任だ。
急に心配度が増して、窓をノックではなく叩いてしまう。それでも反応がない。可能性が少ないけれど、施錠されていない可能性を見込んで、窓をスライドさせると、蒼圉の散らかった部屋が目に映り、ついでに蒼圉の姿も映った。
映らなければ良かった。
瑞希は窓に身を乗り出し、蒼圉に貰ったスポーツドリンクの空になったペットボトルを手に取り、大きく振りかぶる。
キャップの部分が丁度、仰向けに寝転がる蒼圉の鼻に当たり、瞳に涙を溜めて蒼圉は勢いよく起き上がった。
「イタイ……。ってこのペットボトルは、ってやっぱりお前か! 人の部屋を勝手に覗いて攻撃までしでかすとは」
「うっさい! あんたが勉強教えてくれって言ったくせにいつまでも寝てるから悪いんでしょうが!」
深夜だと言うことを忘れて、ついつい声を荒げてしまう。
「ほんとにかわいげのない女だな。片足窓に乗っけてるとパンツ見えるぞ」
「見えるか! パジャマなのに」
「ほんと、だっさくて色気のないパジャマだこと」
「なんで高校生が色気のあるパジャマを着る必要がある!」
ださいパジャマだと言うことは否定できない。いかにもイチキュッパな赤い生地にひまわりの花柄。正直スウェットにシャツの方がマシだ。
「目の保養……って瑞希じゃネグリジェ来ても無理か」
寝起きだと言うのに憎まれ口に淀みがない奴だ。
「蒼圉を見ていると、性善説を唱えた孔子達がバカに思えてくるよ」
「ああバカだ。人間なんて悪の塊だ。善意なんて教えてもらえないと出来ない。そしてその善意すら、相手を手なずける為の方法の一つだし、或いは弱い者を助けて、自分はいい人間だ、なんて思い込むためでもある」
「随分とひねくれてるわね」
「瑞希もな」と鼻で笑う蒼圉。
確かに、否定できない瑞希も蒼圉に言えた口じゃない。
「あんた帰って来てずっと寝てたわけ?」
「ん? ああ、気付いたら寝てて、気付いたらペットボトルが鼻を直撃」
赤くなった鼻を、いい子いい子と子供をあやすように撫でて、眼ではきっちり瑞希を睨む。
「寝すぎよ、あんたってコアラみたいね」
「かわいいだろ?」
「どこが? お菓子とぬいぐるみのコアラ以外はかわいくないし、無愛想だし、臭いし、そう言う点を評価してるのよ」
「どういう点だ」
言って、蒼圉は頭をかき、本題に入った。
「お遊びはここまでにして、教えてくれよ、正弦定理」
「仕方ないわね。全然わからないわけ?」
「ああ、全くだ」
正弦定理なんて今回のテストの初歩の初歩でしょ。それもわかっていないくせによくものうのうと寝てられたものね。
瑞希は仕方なく、数学の教科書を開き、見やすくわかりやすい様に正弦定理をチラシの裏に3問程解いて、紙飛行機に折り蒼圉の部屋に投げ入れた。
すると階段をゆっくりと上る足音が聞こえた。
「じゃあせいぜい欠点取らないようにやりなさい……。ところで、さ、あんた今日の三日月見て何にも思い出さない?」
近づく足音を気にしながら、瑞希は少し早口で蒼圉に問いかける。
「……? さあ。あんな色の感じのクロワッサンがあればうまそうだなと」
「どこが!」
バカにするよう蒼圉に言って、勢いよく窓を閉める、と同時に部屋をノックする音が聞こえた。
「瑞希さん、僕だけどちょっといいか?」
この声はおじさんだ。慌ててドアに近づき、鍵を外す。
「はい、ちょっと待って下さい。今開けますので」
開くとおじさんは上下スウェットの安価な寝間着で、それに似合った優しい笑みを浮かべていた。いつも通り。
「こんな夜中だとご近所にご迷惑だからほどほどにね」
叔母とは違い、叔父は怒った顔を想像できないほど穏和で、その微笑みは癒しという言葉以外見当たらない。蒼圉とは違い、叔父なら性善説は当てはまるのでは? と何となく思ってしまう。
「すみませんでした。ついつい。以後気をつけますので。起こしてすみませんでした」
「いや、いいんだ。まだ寝るつもりじゃなかったからね。叔母さんもまだ熟睡中……注意がてらにちょっと訊きたいことがあってね……。君が本当に――」
「取ってません!」
いきなりの瑞希の大声に、叔父は少しひるみ、笑顔を崩すけれど、すぐに戻し、
「いや、疑っていたつもりではなかったんだ。もしかして手がかりを知っているかと期待して――」
叔父の言葉を遮るように瑞希は言葉をかぶせる。
「いいんです。あたしは家族じゃないし、疑われて当然なんです。別に気にはしてません、傷ついただけですので」
「それだけって、傷ついたなら、それはそれだけですまないだろう?」
「いえ、傷なんていつか癒えるし、それに癒えなくていずれ慣れる物です。現にそうなりつつありますので」
叔父は瑞希の言葉を聞くと、少し顔を暗ませ、さっきまでの微笑みとは違い悲しみを含んだ笑みで瑞希に微笑み、「そうか……。夕食食べてないだろう? そう思ってコンビニの冷麺を買って来てあるから食べなさい。でも女性は夜中の食事って気にするかな?」
「いえ、頂きます。気を使ってもらってどうもすみません」
「すみません……か。うん、おやすみ」
叔父は呟くと、音がしないようゆっくり扉を閉め、寝室に戻っていった。
瑞希はごく少しだけど、叔父のことを好いている。叔母と喧嘩をすると、こうやって気にかけてくれるところや、叔母の手料理を食べさせようとせず、コンビニ製の物を買って来てくれるさり気ない気遣いや、そういえば、お釣りを募金する癖もあった気がする。
そういう叔父の存在が瑞希の精神を保ってくれているのかもしれない。
けれど、そうやって叔父が瑞希にかまうことで、叔母が瑞希に対し嫉妬しているということも瑞希は何となくわかっている。
高校生相手に嫉妬するなと思っていても、言えた口じゃない。だって他人なんだから。それにあたしの顔はお父さんに似ている。それも嫌われる理由だ。叔母はお母さんの妹だ。運転していたのはお父さんだから、やっぱり恨んでいるだろう。
ふと窓を見ると三日月が、さっきよりも輝きを増して眼に届く。
そうか、今夜の三日月が6年前と似ていたのは、蒼圉のおかげではなく、きっと物を取ったと疑われて家を飛び出したからだ。
6年前はお母さん、今は伯母さんか……。
暗くなった気持ちを切り替えようと、瑞希は冷麺を取りに冷蔵庫に向かった。トントンと小刻みに叩く窓を無視して。