空が暗い間 第22話
私たちが乗ったタクシーの運転手さんは愛想がよく、よく噂で聞く運転手はヤクザ上がりが多い、なんて言葉を打ち消してくれた。でも生憎、車内の独特な芳香剤の匂いは私の車酔いを促進させる。
そんな体調の悪い私に気付いたのか、白井くんが私を見つめて、ポケットから何かを取り出した。
「電車もダメなら車もダメとは難儀な奴だ。ガムでもかんどけ。何かかむと酔い止めの効果があるってテレビで聞いたことあるから」
「ありがと」
私は白井くんの手のひらにある粒状のガムを手に取り、包装紙をめくって口の中に入れた。かむと少し酸っぱくて甘い、ブルーベリーの味がする。
私はゆっくりとガムをかみながら映り行く街並を眺めた。
「羽田、ちょっと起きてくれ」
どうやら私は眠っていたみたいで、白井君の声で目を開けると、すっかり集合場所だった貝塚駅に到着していた。
「運転手、ちょっと待ってて。羽田、ちょっと降りてくれ」
どうしたんだろ? 運転手さんに聞かれちゃ不味い話しでもするのかな?
言われるがままにタクシーから出ると、迎えたのは、いつになく真剣な面持ちで私を見つめる白井くんだった。
「寝起きで悪いが、これからは羽田と会えない」
そうだった。眠ってたせいで忘れてたけど、白井くんには彼女がいるんだった。
その言葉をいつか言われるとわかってはいたけど、耳にするとそんな心構えが意味のない物だったと気付かされた。実際言われてみないとその言葉の重さなんて計れない。
私は目の辺りが熱くなるのを感じてうつむいた。
「うん、わかったよ。本当今までありがとう。色々迷惑かけちゃったけど楽しかったよ」
今にも波線の様に揺れそうな声が揺れないように、私はお腹に精一杯力を入れて言った。白井くんは頷き、
「俺もそれなりに楽しかった。……あとタクシーの金はもう払ってるから、お釣りは手切り金としてもらっといてくれ。じゃな」
そう言うと、ヨーイドン! と言われたみたいに白井くんはその場から自転車置き場に駆け出していった。私は慌てて声を張る。
「だめだよ! こんなお金受けとれない!」
その声が届いたのか、白井くんは立ち止ると振り向いて、私みたいに声を張った。
「俺は異星人だから金なんて必要ないんだよ」
……本当、最後の最後までよくわかんない人だよ。びっくりして目の辺りの熱さも冷めちゃった。ていうか最後の最後まで白井くんは異星人のつもりだったんだ、バカみたい。
「運転手さん。すみませんけどその道を国道に向かってもらえますか?」
「わかりました」
せっかくの白井くんの好意だ。私はこのまま家までタクシーで帰る事にした。
さっきまで隣には白井くんがいたんだな、と思うとまた苦しくなった。こういう痛みはきっと後から徐々に効いてくる事を実感してしまう。気を紛らわせるために携帯電話を覗く事にした。
すると、着信履歴が一三件も入っていた。驚いて誰からなのか確認すると、おりちゃんからだ。また何かあったのかな? 朝もあんな調子だったからちょっと不安だ。
私は運転手さんに行き先を変えてもらって、おりちゃんの家に向かう事にした。
おりちゃんと私の家はそれほど遠くないので、あと五分くらいで着くはずだ。私はおりちゃんに電話をかけるけど……繋がらない。どうやら電源を切ってるみたい。
おりちゃんの家の近所まで来ると、運転手さんが、
「どの辺りかな?」
と訊ねて来たので、私はいちいち案内するよりも走って向かった方が早いと判断して車から勢いよく降りた。
「ありがとうございます、ここで大丈夫です!」
「嬢ちゃんお釣りは?」
「ノーサンキュー。おじさん愛想良かったからあげるよ」
若干運転手さんに対して上から目線で話してしまったかな? と気にしつつも、おりちゃんの家に向かって全力疾走した。
おりちゃんの家は住宅街にある普通の一戸建てで、周囲の家は暖色なのに、おりちゃんの家だけ寒色、つまり青色だからよく目立つ。
走って二〇秒もしないうちに到着した。
慌ててインターホンを押したけど、出てくる気配がない。
多分この昼過ぎの時間帯は、家にいるのはおりちゃんだけのはず。お母さんは家のローンの足しにパートをしているって話しを、高校一年のときに聞いた覚えがあるからまちがいない。
しばらくしても応答がないので、仕方なく勝手に裏口から入る事にした。おりちゃんの家は何故かいつも裏口が開いていて、そのことは仲のいい友人なら知っている事だ。
案の定、裏口は開いていて、小さくお邪魔しますと言って家の中に入った。
どうやらおりちゃんはリビングにいないらしく、私は二階にあるおりちゃんの部屋に向かうため、慎重に音を立てないよう階段を上った。
もしかしたら誰もいないかもしれない。おりちゃんの電話も呼び出しじゃなくて、別の用かもしれないし……。そう思わせるほど家の中は静まり返っていて人気がなかった。
「おりちゃん、来たよ! 恵那だよ、恵那」
部屋の扉の前でノックをしながら言っても、全く反応がない。
本当にいないのかもしれない。わたしはこの部屋におりちゃんがいなければ、家に帰る事を決めて扉を開いた。
その先には三角座りでうずくまるおりちゃんの姿があった。
「やっぱりいたの? いたんならなんとか言ってよ」
しんと静まり返り、一瞬で察知した、鬱々とした雰囲気の部屋の空気を変えようと、わざと明るい口調で言ってみたけど効果は皆無らしい。私の声だけが響いて、また元の空気へと瞬時に戻る。
もしかして何回電話しても出なかった私に怒ってるのかな?
「ごめんねおりちゃん、電話に出れなくって」
「出てって」
おりちゃんは顔を上げないでうずくまったまま冷たいことを言った。
「出てって? 電話があったから心配で来たのにその態度はないでしょ。せめて顔見ていいなよ」
私はおりちゃんの隣に座って、次の言葉を待つことにした。
それでも一向に話す気配がない、本当に何かあったのかもしれない。おりちゃんの周りにはそんな、憂慮させる空気が流れている。
「私が悪かったよ。だから許してよ。話ししようよ」
私の声はただ部屋に響くだけで何の効果も持たない。これはどう対処しようかな? と頭をかいておりちゃんを見ると、ふと、おかしなところに気が付いた。
左手で左頬の辺りを押さえてるみたいだ。もっとよく見ると……氷と水が入った袋を持っている。
……もしかして怪我してるの?
「おりちゃん、その顔どうしたの?」
「なんでもない」
「何でもないなら見せなよ」
私はおりちゃんの左手に手をかける。すると一瞥すらしないで、私の手を振り解いた。
「さわんないで、心配なんてしないで。何でもないから!」
今にも壊れそうな声が部屋に響いた。
そんな声出して何でもないわけないじゃん。まあ、原因ならわかってるけど。
「彼氏と何かあったの? 話してよおりちゃん。じゃないと私、帰らないから」
やっと私の思いが届いたのか、それとも私に早く帰ってほしいのか、おりちゃんはうつむきながら、頬を冷やす原因を話してくれた。
「恵那に電話してから、あたし居ても立ってもいられなくなって彼氏の家に行ったのよ。そしたら……別の女がいてさ。そこで頭にきて彼氏に文句言いまくったらこの様だよ」
そういって乾いた笑い声を出して、うつむいた顔を上げてくれた。
その顔には青い痣が、ところどころ出来ていて、私は思わず顔を背けそうになった。
思ったよりも症状は悪いようだ。左頬しか冷やしてないから大したことないと思ったけど、そこが一番酷いから冷やしてるだけであって、全体的に見てもなかなかのやられっぷりだ。少なめに見積もっても十発は殴られてると思う。凄く痛そう。
それでも涙を拭ってどうってことないよ、と強がるおりちゃんを見て私は気持ちを抑えきれなくなって、その肩を抱いた。
「泣きたいときに泣きなよ、私達友達でしょ? なら我慢しないで泣けばいいのに」
その言葉が引き金になったのか、おりちゃんは溜め込んだ涙をいっせいに流し、声を上げてあたしの胸元で泣いた。
もう鼻水か涙なのか判らないような顔をしてる……。でも、なんでこんな時に白井くんの顔が浮かぶんだろう。今はおりちゃんのことだけ考えてあげたいのに、なかなか白井くんの不機嫌な顔が消えてくれない。
もう振られたのに私はまだ思ってしまう……友達が目の前で傷ついているのに……。
こんなときにも好きな人の顔を思い浮かべるなんて私は友達失格かもしれない。そう思うとまた目元が熱くなってきた……今一線を踏むと、私は涙が止まらないと思う。
でも泣いてしまえば、おりちゃんを支える人がいなくなる、そうなってしまうと最悪だ。今の私に出来ることは涙を流さないで、言葉を発しないで、人肌の暖かさを伝えることしか出来ない。
美那に借りた服は、おりちゃんの涙で落ちた化粧やらで、なんともいえない悲惨な状態になっているけど、それでおりちゃんの傷が癒えるならいいか、メイクと一緒にこんな気持ちも流してしまえばいい。
私はこらえた涙の分、その思いを右手に込めて、ゆっくりとテンポよくおりちゃんの背中を叩いた。赤子をあやすように。
私たちが乗ったタクシーの運転手さんは愛想がよく、よく噂で聞く運転手はヤクザ上がりが多い、なんて言葉を打ち消してくれた。でも生憎、車内の独特な芳香剤の匂いは私の車酔いを促進させる。
そんな体調の悪い私に気付いたのか、白井くんが私を見つめて、ポケットから何かを取り出した。
「電車もダメなら車もダメとは難儀な奴だ。ガムでもかんどけ。何かかむと酔い止めの効果があるってテレビで聞いたことあるから」
「ありがと」
私は白井くんの手のひらにある粒状のガムを手に取り、包装紙をめくって口の中に入れた。かむと少し酸っぱくて甘い、ブルーベリーの味がする。
私はゆっくりとガムをかみながら映り行く街並を眺めた。
「羽田、ちょっと起きてくれ」
どうやら私は眠っていたみたいで、白井君の声で目を開けると、すっかり集合場所だった貝塚駅に到着していた。
「運転手、ちょっと待ってて。羽田、ちょっと降りてくれ」
どうしたんだろ? 運転手さんに聞かれちゃ不味い話しでもするのかな?
言われるがままにタクシーから出ると、迎えたのは、いつになく真剣な面持ちで私を見つめる白井くんだった。
「寝起きで悪いが、これからは羽田と会えない」
そうだった。眠ってたせいで忘れてたけど、白井くんには彼女がいるんだった。
その言葉をいつか言われるとわかってはいたけど、耳にするとそんな心構えが意味のない物だったと気付かされた。実際言われてみないとその言葉の重さなんて計れない。
私は目の辺りが熱くなるのを感じてうつむいた。
「うん、わかったよ。本当今までありがとう。色々迷惑かけちゃったけど楽しかったよ」
今にも波線の様に揺れそうな声が揺れないように、私はお腹に精一杯力を入れて言った。白井くんは頷き、
「俺もそれなりに楽しかった。……あとタクシーの金はもう払ってるから、お釣りは手切り金としてもらっといてくれ。じゃな」
そう言うと、ヨーイドン! と言われたみたいに白井くんはその場から自転車置き場に駆け出していった。私は慌てて声を張る。
「だめだよ! こんなお金受けとれない!」
その声が届いたのか、白井くんは立ち止ると振り向いて、私みたいに声を張った。
「俺は異星人だから金なんて必要ないんだよ」
……本当、最後の最後までよくわかんない人だよ。びっくりして目の辺りの熱さも冷めちゃった。ていうか最後の最後まで白井くんは異星人のつもりだったんだ、バカみたい。
「運転手さん。すみませんけどその道を国道に向かってもらえますか?」
「わかりました」
せっかくの白井くんの好意だ。私はこのまま家までタクシーで帰る事にした。
さっきまで隣には白井くんがいたんだな、と思うとまた苦しくなった。こういう痛みはきっと後から徐々に効いてくる事を実感してしまう。気を紛らわせるために携帯電話を覗く事にした。
すると、着信履歴が一三件も入っていた。驚いて誰からなのか確認すると、おりちゃんからだ。また何かあったのかな? 朝もあんな調子だったからちょっと不安だ。
私は運転手さんに行き先を変えてもらって、おりちゃんの家に向かう事にした。
おりちゃんと私の家はそれほど遠くないので、あと五分くらいで着くはずだ。私はおりちゃんに電話をかけるけど……繋がらない。どうやら電源を切ってるみたい。
おりちゃんの家の近所まで来ると、運転手さんが、
「どの辺りかな?」
と訊ねて来たので、私はいちいち案内するよりも走って向かった方が早いと判断して車から勢いよく降りた。
「ありがとうございます、ここで大丈夫です!」
「嬢ちゃんお釣りは?」
「ノーサンキュー。おじさん愛想良かったからあげるよ」
若干運転手さんに対して上から目線で話してしまったかな? と気にしつつも、おりちゃんの家に向かって全力疾走した。
おりちゃんの家は住宅街にある普通の一戸建てで、周囲の家は暖色なのに、おりちゃんの家だけ寒色、つまり青色だからよく目立つ。
走って二〇秒もしないうちに到着した。
慌ててインターホンを押したけど、出てくる気配がない。
多分この昼過ぎの時間帯は、家にいるのはおりちゃんだけのはず。お母さんは家のローンの足しにパートをしているって話しを、高校一年のときに聞いた覚えがあるからまちがいない。
しばらくしても応答がないので、仕方なく勝手に裏口から入る事にした。おりちゃんの家は何故かいつも裏口が開いていて、そのことは仲のいい友人なら知っている事だ。
案の定、裏口は開いていて、小さくお邪魔しますと言って家の中に入った。
どうやらおりちゃんはリビングにいないらしく、私は二階にあるおりちゃんの部屋に向かうため、慎重に音を立てないよう階段を上った。
もしかしたら誰もいないかもしれない。おりちゃんの電話も呼び出しじゃなくて、別の用かもしれないし……。そう思わせるほど家の中は静まり返っていて人気がなかった。
「おりちゃん、来たよ! 恵那だよ、恵那」
部屋の扉の前でノックをしながら言っても、全く反応がない。
本当にいないのかもしれない。わたしはこの部屋におりちゃんがいなければ、家に帰る事を決めて扉を開いた。
その先には三角座りでうずくまるおりちゃんの姿があった。
「やっぱりいたの? いたんならなんとか言ってよ」
しんと静まり返り、一瞬で察知した、鬱々とした雰囲気の部屋の空気を変えようと、わざと明るい口調で言ってみたけど効果は皆無らしい。私の声だけが響いて、また元の空気へと瞬時に戻る。
もしかして何回電話しても出なかった私に怒ってるのかな?
「ごめんねおりちゃん、電話に出れなくって」
「出てって」
おりちゃんは顔を上げないでうずくまったまま冷たいことを言った。
「出てって? 電話があったから心配で来たのにその態度はないでしょ。せめて顔見ていいなよ」
私はおりちゃんの隣に座って、次の言葉を待つことにした。
それでも一向に話す気配がない、本当に何かあったのかもしれない。おりちゃんの周りにはそんな、憂慮させる空気が流れている。
「私が悪かったよ。だから許してよ。話ししようよ」
私の声はただ部屋に響くだけで何の効果も持たない。これはどう対処しようかな? と頭をかいておりちゃんを見ると、ふと、おかしなところに気が付いた。
左手で左頬の辺りを押さえてるみたいだ。もっとよく見ると……氷と水が入った袋を持っている。
……もしかして怪我してるの?
「おりちゃん、その顔どうしたの?」
「なんでもない」
「何でもないなら見せなよ」
私はおりちゃんの左手に手をかける。すると一瞥すらしないで、私の手を振り解いた。
「さわんないで、心配なんてしないで。何でもないから!」
今にも壊れそうな声が部屋に響いた。
そんな声出して何でもないわけないじゃん。まあ、原因ならわかってるけど。
「彼氏と何かあったの? 話してよおりちゃん。じゃないと私、帰らないから」
やっと私の思いが届いたのか、それとも私に早く帰ってほしいのか、おりちゃんはうつむきながら、頬を冷やす原因を話してくれた。
「恵那に電話してから、あたし居ても立ってもいられなくなって彼氏の家に行ったのよ。そしたら……別の女がいてさ。そこで頭にきて彼氏に文句言いまくったらこの様だよ」
そういって乾いた笑い声を出して、うつむいた顔を上げてくれた。
その顔には青い痣が、ところどころ出来ていて、私は思わず顔を背けそうになった。
思ったよりも症状は悪いようだ。左頬しか冷やしてないから大したことないと思ったけど、そこが一番酷いから冷やしてるだけであって、全体的に見てもなかなかのやられっぷりだ。少なめに見積もっても十発は殴られてると思う。凄く痛そう。
それでも涙を拭ってどうってことないよ、と強がるおりちゃんを見て私は気持ちを抑えきれなくなって、その肩を抱いた。
「泣きたいときに泣きなよ、私達友達でしょ? なら我慢しないで泣けばいいのに」
その言葉が引き金になったのか、おりちゃんは溜め込んだ涙をいっせいに流し、声を上げてあたしの胸元で泣いた。
もう鼻水か涙なのか判らないような顔をしてる……。でも、なんでこんな時に白井くんの顔が浮かぶんだろう。今はおりちゃんのことだけ考えてあげたいのに、なかなか白井くんの不機嫌な顔が消えてくれない。
もう振られたのに私はまだ思ってしまう……友達が目の前で傷ついているのに……。
こんなときにも好きな人の顔を思い浮かべるなんて私は友達失格かもしれない。そう思うとまた目元が熱くなってきた……今一線を踏むと、私は涙が止まらないと思う。
でも泣いてしまえば、おりちゃんを支える人がいなくなる、そうなってしまうと最悪だ。今の私に出来ることは涙を流さないで、言葉を発しないで、人肌の暖かさを伝えることしか出来ない。
美那に借りた服は、おりちゃんの涙で落ちた化粧やらで、なんともいえない悲惨な状態になっているけど、それでおりちゃんの傷が癒えるならいいか、メイクと一緒にこんな気持ちも流してしまえばいい。
私はこらえた涙の分、その思いを右手に込めて、ゆっくりとテンポよくおりちゃんの背中を叩いた。赤子をあやすように。