今年幕内に6場所ともあったのは28人。三役以上は安青錦のみ1場所十両だった。十両在位があったのは安青錦が筆頭。 

 

琴櫻・豊昇龍・大の里・若元春・大栄翔・阿炎・若隆景・隆の勝・霧島・翔猿・熱海富士・豪の山・王鵬・正代・宇良・平戸海・高安・一山本・美ノ海・欧勝馬・玉鷲・明生・翠富士・阿武剋・琴勝峰・金峰山・伯桜鵬・時疾風

初場所に幕内に在って引退したのが照ノ富士・遠藤・宝富士。 

 

年間勝利は大の里が71勝。豊昇龍、霧島が55勝、若隆景、高安が51勝。以下王鵬、玉鷲、伯桜鵬49勝。大関琴櫻が8勝4場所でやっと46勝は情けない。

大の里で持っているようなもの。大の里なしでは年間60勝前後がやっとになる?その大の里もケガ。

初場所の番付順で見ると 

 

琴櫻 46勝
豊昇龍 55勝
若元春 45勝
大栄翔 47勝
阿炎 37勝
若隆景 51勝
隆の勝 43勝
霧島 55勝
翔猿 38勝
熱海富士 43勝
豪ノ山 38勝
王鵬 49勝
正代 41勝
宇良 45勝
平戸海 42勝
高安 51勝
一山本 44勝
美ノ海 45勝
欧勝馬 43勝
玉鷲 49勝
明生 33勝
翠富士 44勝
阿武剋 47勝
琴勝峰 42勝
金峰山 46勝
伯桜鵬 49勝
時疾風 47勝

45勝以上は16人。時疾風は6場所とも10枚目以下で47勝と珍しい。10勝が1場所であとは6~9勝と大負けも大勝ちもないため。今年の年間五分以上で一番意外な力士だが毎年こうした地味力士はいる。昔バンバン相撲誌上で春日富士がなぜ上位に入ったかとミニ記事があった記憶。7勝8勝の繰り返しでも45勝なのだ。

 

昨年に意外と挙げた美ノ海は今年も45勝。

 

平幕優勝のあった琴勝峰が42勝は寂しい。一発屋で終わる? 優勝アリでは平成3年の琴富士(42勝)も同じ。琴富士もその後は。

 

決定戦出場の金峰山は46勝。全休もあった大栄翔はなんとか47勝。5場所でというだけに実力は示しているが三役に戻れる?

 

最少は明生の33勝。三役にあった阿炎も37勝と元気なし。巻き返すのか。 

 

 

富山の朝乃山の先達、横綱の太刀山。 偽物の美術品を贈られたという話だが、太刀山という人は相撲界への入門を嫌がった。 

 

明治31年の徴兵検査の折に、老本彌次郎(太刀山)の体格と怪力ぶりが評判となった。梅ヶ谷、荒岩といった友綱一門の看板力士一行が北陸に巡業した際、話に聞いていた友綱が、彌次郎のもとに行司の木村庄之助を使いに出した。しかし元々相撲が嫌いで「家業を継ぐ」ということ、父も跡継ぎであると断ったが、友綱が彌次郎を連れてきたものは招待券を出すと言い、何とか親しい人間が相撲場まで連れ出した。

 

 

しかしけんもほろろに意思は変わらず。友綱は同郷の後援者である板垣退助にこの仲介を依頼。この友綱が現役の頃からの贔屓であった。

 

といっても板垣が一人で頑張っても心を動かすことはできない。板垣は内務大臣の西郷従道を訪ね、富山県知事に老本彌次郎を説得する訓令を出させた。この前代未聞の「相撲入門の命令」に富山県も困ってしまい、話し合いとなる。

 

 

そうして村長や警察署長が連日老本家を訪ねるも、彌次郎は逃げ回る。とうとう知事であった阿部浩(当時の知事は金尾稜厳のようだが相馬基「相撲五十年」などには阿部とある)が直々に訪れ、「顔を立てて、板垣さんに直接会って断ってくれ」と言われた。さすがの彌次郎も折れ、見物半分でようやく上京。この時も万一病気になっては大変と、郡長代理や病院長ら付き添い数人がかりでの一行となった。 明治32年2月のことという。

 

東京へ着くと、まず友綱部屋で休んだ。翌日黒塗りの馬車が迎えに来て、同気クラブに案内された。まるで来賓。そこには板垣、西郷が待ち構えており、「田舎の製茶屋のトップより、横綱のほうがいい」と、名士が直接機嫌を取りながら説得。それでも首を縦に振らなかったが、入門はなんとか承諾することができた。

 

板垣は富山の名峰立山にちなんで「立山」と四股名をつけ、峰右衛門とした。しかしたてやまと呼ぶより、たちやまの方が語感もいい、太刀は武士の魂でもあるとし、太刀山に決まった。

 

とはいえいざ土俵に立つと、兄弟子の猛稽古を見てまた立ちすくむ。これは無理と逃げることも考えたようだが、ここで友綱がまたまた頭をひねった。兄弟子たちに小遣いをやり、太刀山に勝たせてやってほしいと頼んだ。

 

こうして土俵に引っ張り出され、突っ張ってみると、相手は簡単にひっくり返る。繰り返すうちにやっていけるかと自信がついた。とはいえこの特別待遇がいつまでもできるわけがない。巡業であんな小僧とできるかとクレームが入ったり、手加減をする「八百長」の稽古をねたむ兄弟子もおり、逆に痛めつけられることもたびたび。

 

このあたりの動きは資料によって微妙に異なる。どれが正しいのかはよく分からない所。

 

インフルエンザにもかかるなど、ケガと病気もあって初土俵が遅れた。

 

1人の怪力青年を入門させるのに、大物政治家や大臣まで動員する情熱。

 

歴代の横綱大関は渋々入門したものも多いが、太刀山の拒絶ぶりは随一だろう。それもお上の力でねじ伏せるのも当時の世相が伺える。

 

これにがっかりにしたのが同じ富山の梅ヶ谷の師匠であった雷。同郷だけに入門するなら雷と考えていたが、説得に尽くさなかったことを悔いたという。

 

こんな始まりだけに結局はどこまでも相撲界とは合わない人だったようだ。結局ケチというのも、小心だけに気前よく大盤振る舞いするのが性に合わなかったのかもしれない。

 

朝乃山。何とか幕内復帰しそうだが、相変わらず不安定。それもこれも性格? 2勝の日翔志にボロ負けというのがやっぱり不安材料。しかし新十両優勝の藤凌駕の当たりを止めた悠々と寄り切ったあたり、まだ地力あり。

 

膝も頼りにはならず、三役復帰は厳しいとみてしまうが、幕内ではまだまだやれるか。

その富山の朝乃山の先達、横綱の太刀山。

 

近代最強ともいわれながらどこか影が薄い。それもこれも人望がなかった。ようするにケチだったようである。今となっては忘れかけられてるのもこんな点だろう。

 

太刀山と入れ替わりに上がった大錦も、旧制中学卒という経歴から相撲界とは水と油。異質とはいえ取的に大判振る舞いといった豪快な話もある。この太刀山はそんなこと全然しなく、宴席もろくにでなかったともいう。

 

そもそも太刀山は相撲界への入門を嫌った人。根は小心だった。
 

結局ケチというのも、小心だけに気前よく大盤振る舞いするのが性に合わなかったのかもしれない。


そんな太刀山の失敗談。

大正8年3月号の「角力世界」より。失望と信仰と弟子と表題。小題に太刀山の東関とあり

 

東関が贔屓から雅邦の傑作だから大事にせよと其の作を6幅貰ひ、喜んで玉堂画伯を訪問して函書を頼んだ。スルト先生目を丸くして之はことごとく偽物であると鑑定された。驚いた東関は俺は相撲は天下の横綱であったが幅にかけては全くの新弟子であると失望せりとは当年の噂。

要するに偽物を贈られたらしい。

雅邦は橋本雅邦(天保6-明治41)、玉堂は川合玉堂(明治6-昭和32)のはず。橋本雅邦は日本画の巨匠で横山大観らの師匠だが、玉堂も雅邦の教えを請け、弟子筋のよう。真贋の見分けは簡単か。

 

この贔屓なるもの、わざと偽物を贈ったのではとも考えてしまう。全くの新弟子というが親方となってはこれまでの実績は真っ白と同じようなモノ。どこか人望に欠けた。


そんな太刀山が検査役(審判)の選挙に落ちて角界廃業したのはこの直後。不運の前触れだったのかもしれない。こうしてみると怪力で相撲界を制したものの、小心で豪放さとは遠い。


白鵬も不祥事なければ理事選に打って出たという話があった。不祥事以降の流れを見ると、なにか太刀山と同じような事になった予感も。とにかく人望が大きいようだ。