秋場所番付が発表の今月26日付で、三役格行司の木村容堂が立行司・式守伊之助に昇進すると発表した。

 

三役格行司を約10年務め、立行司としての技量、品格は十二分に保持していると認められたことが昇格の理由。これで木村庄之助とともに立行司が2人に。立行司が2人は9年ぶり。

 

立行司は2015年夏以降、先代の式守伊之助が50代半ばながら首席行司として土俵に上がったが、重圧もあったか差し違えなどの不安定な土俵となり、最後は不祥事から辞職となった。現在は相撲博物館の職員という。このことが大きく影響し、後任の伊之助(現38代木村庄之助)も体調不良から裁きが安定せず、ようやく定年間際に庄之助昇格となった。いわば行司の格は乱れた。

 

容堂は番付書きを長く担当、三役での裁きも長い。土俵上ではハリのある声とキビキビした動きでありミスは少ない。定年まで残り2年ということも昇格の要因だろう。


そもそも木村庄之助と式守伊之助が2トップとされたのはいつからなのか。これが意外にも新しく明治末期と思われる。明治43年に規則が制定され、庄之助がトップ、伊之助が次席と明文化、従来式守家から木村家の襲名も不可能だったがこれも改正された。おそらく伊之助と庄之助を2トップとする目的であったとみえ、これにより17代の木村庄之助が、木村庄三郎から明治44年夏に式守伊之助、明治45年夏に木村庄之助を襲名したのが両名跡を襲名した。 現在からすると意外だが当時は庄之助は木村家のトップ、伊之助は式守家のトップという考えが強かった。

 

それ以前の立行司を見ると、明治30年に当時の15代庄之助と8代伊之助が亡くなり、木村誠道が16代庄之助に昇進。その次場所(明治31夏)に木村瀬平と与太夫改め9代伊之助が同時に立行司となっている。以降瀬平が明治38年に死去するまで、庄之助・瀬平・伊之助の順席であった。瀬平は庄之助伊之助以外では最後の立行司とされる。明治30年の両立行司死去時に、瀬平も庄之助の候補となるなど、番付面では首席ではなくとも、他の行司より年長ということで実質首席のような扱いだったようだ。これは行司の序列自体不明朗であったことに加え、瀬平の性格(自分の裁きが正しいとなると断固主張する)も大きく関係してるようだ。

 

同時期の大阪相撲にも木村玉之助以外の行司も立行司格の扱いの行司がいた。

 

 

例として、明治28年10月は首席に玉之助、以下木村清兼、木村重正、木村槌之助、木村浅次郎、明治34年夏は首席玉之助、以下木村龍五郎、木村正直、岩井相馬とある。このうち木村清兼、木村正直(のち玉之助から越後)、岩井相馬も吉田司家より故実門人となり立行司格であった。大阪相撲は階級の区別もあいまいであったが、玉之助だけが立行司ではなかった。

 

ちなみに行司の姓をみると、現在にはない岩井、吉岡といった姓がみられる。番付を全て確認できていないが、大正10年1月には上位に岩井房之助、正朝ら3人がみられるが、岩井姓は大正15年の東西合併相撲を限りに消滅したようだ。

 

吉岡は大正4年まで上段に吉岡一学、2段目に広政、下位にも2人ほど名がみられるが、大正6年1月には下位に1名みられるのみで、大正9年には消えている。改名か廃業ということとなるが、両場所を比較すると行司数が減っており、廃業の可能性が高い。

 

京都相撲でも明治41年に吉岡米治郎がみられるが、おわりははっきりしない。

 

東京相撲ではもっと古く万延元年10月の、2段目に吉岡左軍太、4段目に岩井秀三郎が最後とみられる。ちなみに直前の番付には名がなく、大阪か京都の移籍という可能性もある。それ以前となると文政2年11月の岩井左右七になるようだ。場所後に上位の行司がかなり消えているが理由ははっきりしない。

 

 

巡業の休場は9人。本場所休場者のほか、貴景勝ら皆勤の休場もある。相変わらず過酷なスケジュールで稽古で成長するよりも疲れが先に来るのではと思ってしまう。ある意味休場で休息をとるのも大事だろう。

 

オリンピックの柔道も不振。軽量級は強さがあるが、中量級以降は攻めあぐねるような試合が多い。日本側は従来の柔道だが、他国は技で仕留めるよりも偽装攻撃を繰り返し、指導の数で心理的に圧迫するような展開がみられる。白鵬を思い出すが何か相撲とリンクしているところがある。本来の武士道という基本が遠くなっている。