昨年、国立映画アーカイブより「昔の競技」というフィルムはじめ大正期のスポーツ映像が広く公開された。これは大正時代に文部省の制作で陸上競技や蹴鞠といったものの大会の様子やルールを記録したもので、中でも大正11年4月の霞ヶ関離宮において行われた、摂政皇太子裕仁親王の誕辰祝賀余興の台覧相撲は当時の大相撲を映像で知る貴重なものだ。

 

特筆されるのは横綱大錦の土俵入りや、大錦と横綱栃木山の取組が収録されていること。大錦はこれが現在確認される唯一の映像と思われ、栃木山の取組の映像も他には見ることができない。さらに番外取組として福柳や太刀光といった大正時代の上位力士の取組もあり、相撲ぶりを窺えるものとなっている。

 

大錦の勇壮な土俵入りも見事だが、栃木山の相撲はこれまでの噂に違わぬものだった。映像の栃木山はやはり大錦よりかなり細く、筋骨隆々としている。現代であれば翠富士、炎鵬と同等の体躯だが体重はさらに軽かったのかもしれない。

 

相撲は立ち合い互いに突っ張った後、大錦が組み止めて(もろ差しか?)一気に白房の方向へ寄り詰めるが栃木山は弓なりになってこらえる。大錦が一瞬気をぬいたか栃木山は左差し、右はおっつけの形で一気に電車道で走大錦は正面土俵まで追い込まれるがこらえ小手に振って土俵中央に戻した。今度は大錦が抱える形で一気に東土俵に走るが、またも栃はこらえる。土俵中央で栃は頭をつけ左差、右は大錦の腕をつかむ格好。大錦は腰は伸び抱える形である。さらに大錦出るところ栃木山は掬い投げで逆転を狙い、体勢崩れたがまたも中央に戻る。形としては栃木山の腰の割りが十分で、再度左差し、右ははずにかかって押すと大錦はもうこらえることできず土俵を割ってしまった。

 

 

 

 

 

 

一貫して栃木山は左を差し、右はおっつけか筈にかかる形で廻しは取らない。特に大錦の寄りをこらえてからの電車道の出足が目を見張る。 「立合いに自分が用心していないと出足で自分の首に電気が走って痛める」ともいわれたがこのスピードでは確かにうなずける。さらに相手がなかなか出ないところをようやく押し出す、「押し切り」が得意ともいわれたがこの取り組みも同じであった。押し切りが廃止の際、珍しく怒っていたというがもっともだろう。

 

このあたり体格で不利なだけ圧勝とは言わずとも、確実に自分の型を作ってから勝利したこともよく分かる。 「栃木山のすり足によって出来た二本の平行線がくっきりできた」「相手のまわしを取らないかわりに相手にも自身のまわしを取らせない」という逸話も実感できる。

 

横綱の大錦相手にこれだけの相撲であれば平幕との力量差は歴然であったに違いない。横綱勝率9割越え、3連覇のまま引退という記録もむべなるか。

 

 

また映像では勝負検査役として元梅ヶ谷の雷の姿、行司の木村庄之助、式守伊之助などの土俵ぶりも見ることができる。いずれも初見のものである。近年も宮城山や3代目西ノ海の土俵入り映像を見たことがある。大正時代の映像が発掘されることを望みたい。