5日目終って全勝が琴ノ若に朝乃山。横綱大関は全員1敗。照ノ富士が1敗で凌ぐとは思わなかった。膝が悪くとも上体の力でとっているようだ。特に腕力は凄く、豪ノ山の突進も腕を捕まえて捌き、北勝富士も腕を返して慎重に寄って行った。全盛期の5割ほどの力だろうが小結~平幕レベルには何とか対応している。上位戦でどうなるかだが調子次第では11勝ぐらいまではいけるか。朝乃山は調子が乗ってきている。ポカ負けも多いがどこまでいく?

 

霧島は1敗とはいえまた危ない相撲に戻りつつある。正直綱取りというイメージがないが...  豊昇龍は逆転勝ちが得意だが立ち合い一気の相手には完敗があるのが弱点。ある意味ピンチにならないと力が出ないのだろう。そこが難しい。

 

まだ先が長いとはいえ、照ノ富士が不調なりに4勝で持ってきたように三役~平幕陣とは力量にかなりの差がある。何度も言っているがこれでは先がどうなるか。いつまでも照ノ富士を崩せない上位陣では見かけ倒しになってしまう。

 

貴景勝は休場した。首の不調で場所前の稽古も今一つと予想できたこと。一進一退だがこの先どうなるかよく分からない。

 

高安は腰痛で休場からすぐ出場。武蔵丸の講評でも指摘されたがベテランだけに稽古を抑えた方がいいのだろう。2場所に1度のペースで腰を悪くしている。もう若手並みの稽古では持たない。これでは本場所の半分をふいにしてるようなもの。最後の一花には遠い。

 

横綱の進退の続き。「横綱の引退と栃錦」では引退いろいろと題し谷風からの横綱について記載がある。限界ではない引退としては幕末の陣幕と大正の大錦。大錦は三河島事件で責任をとって自ら断髪したが、特に陣幕のいきさつはあまり知られていない。

 

陣幕は慶応3年10月に横綱を許され、11月場所で優勝しながらすぐに大阪相撲に移った。その理由として鬼面山との折り合いが悪く(阿州藩の抱え、陣幕は阿州→出雲→薩州藩と移る)阿州家と上手くいかなかった説、慶応3年暮れの薩摩屋敷焼き討ちを京都の西郷吉之助に知らせるため西下してとどまった説、明治維新で江戸市中が混乱しており逃げる形で江戸を去った説とさまざまあるようだが明確ではないようだ。大阪相撲の頭取として地位を上げた功績は隠れたものである。

 

見事な散り際として挙げているのが栃木山、梅ヶ谷①、太刀山、常ノ花、双葉山、栃錦に無類の雷電。

 

梅ヶ谷は明治17春に7勝0敗の土つかずで2月に横綱、翌夏は7勝2敗、明治18春に3勝0敗3分、夏場所全休し12月に引退した。明治17夏には大達に敗れ、翌日高見山にも敗れた。この時点で限界を察したようだ。翌春は引分も多く戦意が衰えていたのかもしれない。11月の天覧相撲で西ノ海に敗れたことが大きな決意となった。

 

太刀山は大正5夏に栃木山に敗れ56連勝でストップ。この時点で栃木山に後を託す決意があったともいう。翌場所大錦に敗れ9勝1敗。国技館が大騒ぎとなった。以後2場所休場しそのまま引退となった。結果的には足のケガだが気力の衰えが大きいようだ。

 

この両者は年2場所時代でありこれほどの引き際は現在では無理だろう。照ノ富士とて年2場所では今以上のコンディションのはずだ。つづく。