大相撲のゴタゴタが止まらない。本場所もお世辞にも力と力のぶつかり合う土俵といえるか。見る気が失せる。

 

協会職員の残業代未払問題。更にパワハラ。主事というのは事務方のトップ。かつて無気力相撲で協会が極秘の総会を開いた際、主事なる人物も説明に立っていた。元力士の年寄も問題だが事務方まで腐敗している。出勤停止の処分を下したが賛同せず署名しない職員は対決姿勢のようだ。泥仕合もあるだろう。

 

 

それ以上に驚きのニュースが。三役格行司の木村玉治郎が突然辞職。師匠立浪が慰留したが決意が固かったとのこと。

 

定年まで2年。なぜこのタイミングなのか。

 

まず番付編成会議の水曜に裏方の昇格があった。主なものは式守伊之助の庄之助昇進。実に9年ぶりの木村庄之助復活とあって少々大きく取り上げられている。定年まで1年を切った伊之助の昇格は予想はされていた。しかし驚いたのは三役呼出次郎の立呼出昇格。それに合わせて克之も副立呼出へ昇進。

 

次郎は御存じの通り呼び上げが上手いと言えない。人柄と土俵築きでは評価があるようだが、拓郎が立呼出昇格→辞職後も昇格しないのは技量の問題が多分に大きかったはずだ。秀男定年時に雑誌で呼出の特集もあり、分業制も考えるべきではという提言までされていた。遠回しに次郎(他の呼出も上手いと言えないが)の批判をしているようにも見えた。

 

 

さらに伊之助。こちらも首席行司となって6年近く、伊之助昇格から5年になるが差し違え、転倒、転落など裁きが不安定で立行司としての威厳は低い。やはり技量の問題からか昇格を見送られていたとみる。協会も庄之助を必要としていないという説もあった。しかし結果的には昇進となった。

 
 

それはさておき木村寿之介の三役格昇格で5人三役体制が不自然だった。順当であれば伊之助には玉治郎が昇格するのが普通だろう。行司をある程度知っていれば後任の伊之助が不在というのはおかしいと考える。呼出は次郎に合わせ克之が昇格している。なぜなのか。疑問に思った矢先である。

 

 

木村玉治郎は1976年入門のベテランである。玉治郎は27代木村庄之助の三役時代の土俵に憧れて入門したらしい。そのせいか土俵もそっくりな掛け声と所作を継承。現在では異色となった構えや左手を出す所作も新鮮に見える。しかし高齢ながら元気だった師匠は6月に97歳で亡くなり立行司姿を見せることができなかった。その際、玉治郎は私も定年が近いのでと師匠を偲んでいた。

 

 

やはり考えられるのは伊之助昇格の見送りだろう。不安定な伊之助に代わり、上位の土俵は玉治郎が締めていたともいえる。にもかかわらず技量不足が明らかな伊之助が昇進し自身は変わらずでは納得できないのではないか。処遇に対する日本相撲協会への抗議の意味も大きいともいえる。

 


思うに師匠が亡くなったことも辞職の決断を後押ししたのではないか。毎場所前と後は電話で近況報告していたようだ。奇しくも庄之助昇格が師匠他界の後となった。健在中ならば現役続行したのではないか。当然辞職となれば師匠にも質されるはずだ。

 

師匠27代庄之助(熊谷の親方)も三役時代行司ストライキの当事者であった。1971年、協会が技量が不足する行司の引退勧告、土俵態度などの審査、木村庄之助の担当を2番とするといった改革を打ち出したところ、成人以上の行司が全員辞表を提出するなど混乱し撤回。当時の25代庄之助が差し違えから出場停止、辞職など禍根を残した。その後熊谷の親方は48歳での伊之助、51歳での庄之助昇格。これは協会に対し従順であったのが大きいともいわれた。その裏で割を食った行司もいる。


玉治郎の昇格は確実にないという情報は以前よりあった。このあたり行司会と協会に微妙な軋轢があり、それが現在も尾を引いてるように思う。不祥事で辞職の先代(40代)の伊之助も協会との関係が巷言われた。一門の違いや師弟関係などによって協会に近い行司と対立している行司といるようだ。

 

なにはともかく残念なことになった。今後庄之助や次郎はじめ行司呼出陣も大過なく全うできるか。