日大アメフト部の問題。記者会見でほぼ前面に立った日大卒で検察出身の副学長の態度や会見内容がまた騒がせている。大麻の残りを自ら保管していたという。これで危機管理学部の非常勤講師というから何をかいわんや。まるで危機の実例を提供しているようではないか。

 

話は変わって明治生まれが非常に少なくなっている現代。明治時代の相撲界などはるか遠い世界。

 

明治の相撲界は昭和30年代でも懐かし話だった。雑誌サンデー毎日臨時増刊には33年5月~11月号まで4回にわたって「思い出ばなし・浪ノ音覚え書き」と題して当時の年寄長老だった振分(元関脇・浪ノ音)に小島貞二氏がインタビューしている。恐らく元は雑誌相撲に連載された「はなしの土俵」の32年1月号ではないか。

 

浪ノ音は明治15年生まれ、31年初土俵を踏み、38春十両、39春入幕と当時の相撲人でも群を抜いて古い人であった。最高位は明治40夏の関脇。明治時代に力士人生のピークを迎えている。それだけに明治中期の角界に詳しく文献には出ない裏話も多数ある。

 

第2回の内容を見ると(第1回は未所持)食事が粗末だったという話に始まり

 

相撲界の経済状態が悪いから、飯が多く食べられないよう、口に入れても舌がヒリヒリするとうがらし味噌が下っ端のただひとつのお菜だったという話をしたが、今考えればちょっと下火だったという程度なんだよね。

 

新弟子になったのは明治31年春場所だが、明治20年代の興隆期から梅常陸の全盛期に移る、今の言葉でいえばブームの谷間というか過渡期でそんなにひどいもんじゃなかった。とうがらし味噌にたくわんとみそ汁と飯だけといったって、そのころのお店の小僧だってそんなもんじゃなかったかな。もっとこっちはそれが二度三度だったから。(一部編集)

呼出太郎も振り返っていたが、この頃は幕下以下の力士は回向院の広場である協会支給の炊き出しでご飯ととうがらし味噌を食べるのが基本の食事だったらしい。味噌にも2種類あり辛味噌と甘味噌でうっかり辛味噌を取ってしまいしびれるような辛さで泣き出しそうな思いを回顧している。

 

この炊き出しには相撲人ではない両国近辺の住民も集まっていたようだ。ある意味現在以上に公益法人の意義を果たしている。

 

日露戦争時に幕下上位にあったが徴兵されず残念だったようだ。このあたりお国のためにという当時の若者の考えが伺える。徴兵者は勲八等を功勲として受賞したこともあったようだが。その頃の思い出として50歳を過ぎた鬼ヶ谷との対戦があった。

 

そのころのわしは十両2枚目、その場所で優勝して39年1月に入幕したのだがそれはとにかく、その場所でわしは鬼ヶ谷と顔を合わせたんだ。安政5年愛媛生まれ、21年入幕、24年小結というんだから顔を合わせた時は数え年で50という年寄力士だった。位置は下がっていたが頭は髷が結えるほどの髪の毛があったし、相撲の激しい人で、ヨイショヨイショと掛け声のかける威勢のいい人だった。わしはそのとき23。新進気鋭とでもいうんだろうか。元気もあったわけだが、立合いお互い廻しを取らないで突っ張り合い、あげくの果ては若い方のわしが逃げ回るというえらい相撲になってしまった。

年齢差27歳。鬼ヶ谷はさらに2年近く現役で51歳で引退。年寄としても長命で75歳で亡くなった。この勝負、さらにその後のエピソードが面白いがそれはつづきに。