大正期までは不可解な番付編成が度々ある。その究極な例が勝ち越しで陥落した大関ではないか。当時は事情があったと思うが後世から見ると理解できない点が多い。正代や御嶽海も後世では謎の大関になるのだろうか。

 

江戸の勧進相撲以来続いた相撲会所から東京大角力協会に改称されたのが明治22年。この前後に他にも江戸以来の規則が見直され、十両の階級が正式に制定される、勝敗のみを基準として番付編成されるようになったといわれる。いわば近代相撲への下地ができ始めていく。これ以前は平幕でも勝敗のみでは理解できない番付編成が多い。ひとまず明治22年以降の勝ち越し陥落大関を調査した。

 

明治23春  一ノ矢  1勝3敗1預    3勝2敗1預→6勝3敗 (直前2場所の成績)

明治29夏  大碇   2勝6敗1預      4勝1敗1分→5勝3敗

明治30夏  大戸平  4勝4敗1分    全休→5勝3敗

明治36夏  朝汐    4勝4敗1分     6勝1敗2分→4勝4敗1分

大正8夏  九州山  全休(小結)    1勝0敗1預→5勝5敗

(朝汐、九州山は5分だが入れた)

一ノ矢は関脇西ノ海が全勝のため大関2人の不文律を守るため陥落させたのだろうか。また新鋭小錦も控えていた。西ノ海は鹿児島出身。当時は依然として薩州の力が強かったため昇進が有利だったという話もある。

 

大碇は土俵態度や当時の幹部の心象が良くなかったという話もあるが真偽不明。更に地位なしの張出となった例も上記の大碇も含め、剣山、八幡山、鳳凰と明治20~30年代に頻発している。この解釈が難しいが角番のような扱いだったのではないか。事実全員陥落か引退している。朝汐は既に晩年、九州山は2場所で陥落。栃木山の横綱昇進に合わせた昇進だったらしい。

 

一方で負け越し続きで落ちない例もあった。

國見山

明治42春  全休 

明治42夏  3勝2敗5分

明治43春  2勝0敗4分

明治43夏  7勝1敗2分

明治44春 2勝

明治44夏 全休

明治45春 5勝2敗2分1預

明治45夏 全休

不調続きながら陥落せず全休を最後に引退している。功労的なものもあったか。

さらに伊勢ノ濱は

大正4春  1勝3敗2分

大正4夏  4勝6敗

大正5春  2勝(休場)

大正5夏  2勝6敗1預

4場所連続不調ながら陥落せず大正6春に6勝3敗とようやく勝ち越した。伊勢ノ濱はその後も不調を脱せず大正8年引退となった。

 

千葉ヶ崎も

大正10春  2勝7敗1預

大正10夏  4勝6敗

大正11春  4勝5敗1分

大正11夏(陥落)6勝1敗1分

大正12春  全休

2場所連続負け越しでも据え置きで、3場所目の負け越しで漸く落ちた。千葉ヶ崎は勝ち越しで復帰したが再度陥落し引退した。

 

こう見ると同じ大関といっても扱いにかなり差がある。國見山、伊勢ノ濱の場合師匠友綱(海山)が取締だったのも大きいのではないか。國見山と同時昇進の荒岩が小柄なことから大関昇進できず再三関脇に留め置かれたのを見ると、体格の印象も相当影響している。

 

更に昇進陥落の星を見ると、関脇と大関にそれほど格の違いがなく小結→関脇のような昇進程度に扱っていたとも思う点もある。伝達式は当時もあったようだがあっさりと陥落した例を見るに現在ほど大関の地位を重要視していたかは微妙だ。

大関の地位が危うくなっている現今の相撲界。過去の例から見直すのも一つの手ではないか。