立行司はいつから確立された? 立て呼出の名称は平成6の階級制度創設以降が正式だが、太郎の談話などから、明治時代より横綱土俵入りを引く呼出しや横綱大関の取り組みを呼び上げる呼出を「立呼出」と仲間内で呼んでいたらしい。古くは勘太郎、勝次郎(明治大正期)、宗吉、清吉(昭和戦前)、小鉄や卯之助(戦後)がこれに当たる。

 

明治期の文献には立行司の呼称があまり現れない。明治32年発行「相撲全書」(吉村楯三編)には行司の給金について説明があり「最高を十円とす。木村庄之助、式守伊之助の両人なり。この両人は土俵の上にて草履を許さる。次は足袋行司を稱えて八円より五円までのもの56人。其の他は一円以上四円以下なり。呼出は二十余人もありて一人二円とす。」とあり、草履か足袋かで判別していたことが分かる。また呼出の待遇の低さも伺える。

ちなみに明治33年の物価は白米10キロで1円、大卒初任給で23円、総理大臣の月給800円、絹が1反3円ちょっとというのを見ても長年修行で極めた地位の割りに低い給金というのが理解できる。

明治34年「相撲史伝」には「八円を最高額にし、其立行司は十円を最高とす」、明治42年発行常陸山著「相撲大鑑」には「~現に木村にて庄之助、式守にて伊之助を襲名するものは、相撲道の立行司となり、土俵に草履をはき、木剣を佩き、緋房のうちわを持つことを許され、年功を積みしもの、殊に紫房を授けらる。(略)」。緋房(三役格)の中で上位の者が紫房を許可され、庄之助や伊之助を襲名するという解釈がとれる。つまり房と行司名が必ずしも一致しないとも考えられる。しばらく明治の相撲界について考証したい。つづく。