明治期最初の相撲黄金時代と言われる「梅常陸時代」を作った一方の梅ヶ谷。48歳の急死まで出羽海全盛時代だった常陸山とは対照的に梅ヶ谷の晩年は寂しかった。昭和2年巡業先の新潟で急死したがその前年取締(今の理事長相当)を解任され平年寄だったとのこと。

 

これについては諸説あり別格年寄だったともいわれるが、前年に部屋の不振を理由に取締辞任の意向を示した際(慰留され続投することを含んでいた)理事・検査役の満場一致であっさり決まってしまったとか。協会内にも先代の娘と離縁など不行跡から反雷派が秘かに溜まっていたと推測する。

 

番付年寄欄は昭和2年よりイロハ順であり役職が分からない。大阪相撲から加入の頭取達が下位に記載されるのに反発しての措置ともいわれたが実は梅ヶ谷の件も大きいのではと邪推する。