先に言っておくと、誰かにこんな言葉を投げかけられたわけではありません 笑
でも、きっとこういう批判って絶対にあると思うし、気持ちもわかる。
なんか俗物っぽいもんね 笑
でもでも気になることが。
こうゆう批判って基本的に
「恥ずかしいやつだな...」
っていう気持ちから批判するんだよね。
でもこっちからしたら
「そんなの知ってるよ!」
ってなわけです。
恥ずかしいと思われるなんて百も承知なわけ。
でも、こういう批判をわざわざする人って、我が物顔で「教えてあげるね。」ってぐらいの勢いだよね。
表面しか見てない。結果しか見てない。
ここまではわかりやすいようにブログの話で進めてるけど、何にでも言える。
パッと誰かが発した言葉。
パッと誰かがした行動。
そこにあらわれた事象だけ見て個人を批判するのとおんなじこと。
どんなものにも大抵文脈があって、どのような言動という結果にも思考という仮定があると思う。
対個人において結果だけ見て批判するのでは、あまりに冷たいんでないかと。
もちろん仕事みたいに結果で勝負しなければならないこともある(もちろん仕事にも例外はあると思う)。
でも少なくとも個人相手には、
まずは理解しようと努めてみてもいいんじゃないかな。
って話。
理解したくもないなら放っておいたらいいと思う。
それぐらいの自由はあるっしょ。
なぜいちいち表面上だけすくい上げて批判しなければいけないのか。お互いに無駄でしかないよ。
あとね
文脈を理解しようと努めれば、
どんなに対極の考え方でも受け入れられる
ってこともある。
実際に先週の土曜に体験しているから、これは間違いない 笑
どこかで聞いたことがある「対話することによって世界平和!」みたいなのが妙に腑に落ちた、そんな土曜日でしたよ。
あと、授業で聞いた話を一つ。
外交官とテロリストの話。
テロリストに人質をとられ外交官は人質解放を目指している。
そこで外交官が人質と対話を行い。
テロリストと外交官はお互いに、目的は同じところにあると理解するわけ。
「世界をよくしたい。自分の子供のためにより良い未来を残してあげたい。」っていう目的でね。
それが理解できたことによって、人質は解放されるに至ったらしい。
ってかこれ、有名な話でみんな知ってるんかな?笑
この例みたいに、
あらわれた事象だけ見ると対局だった物が、対話によって目的が共通することが明らかになり、お互い理解しあえるというのもある。
もちろんこれにも例外はあって、理解した上で批判したくなる場合もあると思う。
でもこの場合の批判はさっきの批判と違ってお互いのためになると思う。
例えば
(また、わかりやすいのでブログの例で言いますが、決して誰かに批判されて躍起になっているわけではありません 笑)
A君「ブログはじめた。」
B君「恥ずかしいやつだな(´_ゝ`)っぷ。」
と
A君「ブログはじめた。」
B君「なんで?」
A君「こうこうこーゆう理由でね。」
B君「そういう理由だったらブログは向いてないんじゃないの?」
だったらどっちが有益かは一目瞭然。
もちろん「理解をしてもらおう。」と努めることも大切。
発信する方が、理解しようと努める相手に甘えて胡坐をかいてもいいということを言ってるわけではない。
対話は共同作業ですから、「「理解してもらおうとする心」と「理解しようする心」が大切だと思うのです。
つまりね、
お互い切磋琢磨しようや
ってことなんちゃうかな(´_ゝ`)(投げやり)
ずれてきてる気がするけど、この記事で言いたいのは、
どんな人にも事にも文脈があって、それを理解しようと努めるのもいいんじゃないかな!
ってことです。
俺も人の話しが本当の意味で聞ける、そんな大人になりたい(´_ゝ`)