将棋は駒の動きさえ覚えれば指せるシンプルなゲームですが、
その他に4つだけ「禁じ手」があり、覚えておく必要があります。
これらが「なぜ」禁じ手となっているのか、
その理由について一つ一つ説明していこうと思います。
①二歩
二歩を禁じ手とする理由は説明するまでもありません。
二歩を許容すると受ける側に極めて優位にはたらき、勝負がつかなくなります。
②行き所のない駒を打つ
行き所のない駒は「ただの壁」であり、駒の種類は全く意味をなしません。
これは、駒の個性によって成り立つ将棋というゲームの醍醐味から完全に外れてしまって、美しくないです。
もし行き所のない駒を打つことが許容されると、
①攻める側に優位にはたらきます。
(例えば敵陣一段目に相手の飛車がいて受けによく利いているとき、攻める側が一段目に歩を打って利きを遮ることができる)
②入玉模様の将棋では入玉している側に優位にはたらきます。
(例えば敵陣一段目にいる自玉に対して飛車で王手されたとき、歩を打って利きを遮ることができる)
しかし、将棋はもともと「攻める側に優位」「入玉している側に優位」なゲームなので、
この禁じ手を許容すると、ゲームバランスが悪い方向に進んでしまいます。
③連続王手の千日手
明治時代までは「千日手は攻めている側が手を変えなければいけない」というのがルールでした。
ただし、「攻めている側」の定義が曖昧だったり、どちらも攻めていないような場合があったりして、
千日手打開の制約をどちらか一方に課すことが難しいので、引き分けとせざるを得なくなった経緯があります。
これに対して連続王手の千日手は「王手する側」「王手される側」が明確なので、
「王手する側」に制約を課すことが可能です。
また、連続王手の千日手は、通常の千日手とはかなり意味合いの異なるものです。
たとえば下図は王位戦第1局の渡辺ー藤井戦で勝負の分かれ目となった重要な変化です。
局面は「先手玉は詰まず、後手玉は受けなし」なので後手の負けなのですが、
もし連続王手の千日手が引き分けとなるならば、ここから
△3七銀▲1七玉(かえて▲同玉は詰み)
△2八銀打▲2七玉△3六金▲1八玉
△1七銀成▲同玉△2六金▲1八玉
△3六馬▲2九玉△4七馬▲1八玉
△3六馬▲2九玉△4七馬▲1八玉
△3六馬▲2九玉△4七馬▲1八玉
△3六馬(同一局面4回)
まで千日手となってしまいます。
したがって、攻める側は自玉の不詰を読み切って必至をかければよいというわけではなく、
連続王手の千日手により引き分けに持ち込む筋まで警戒しなくてはいけなくなるのです。
もちろんこれを勝負の一面として捉えることもできます。
他の禁じ手とは違って指し手そのものの違法性はありませんし、
負けている側が最後に千日手引き分けに持ち込むチャンスと捉えることもできますからね。
しかし、最終盤に引き分けの要素をわざわざ作る必要はない、というのが大勢の見方です。
もともと将棋は「どちらが早く詰ませられるか」の勝負なので、千日手という要素は出来るだけ排したいのです。
※双方逆王手の連続王手の千日手があればルールの不備となりますが、それはあり得ません。
このことが直感的に分からない人は、下記ブログを読んでみるといいでしょう。
④打ち歩詰め
打ち歩詰めの理由について、
「最下級の歩兵が寝返って大将の首を取るなどまかりまらない」
という理由付けがされることがあります。
確かに御城将棋などやっていた時代なら分かりますが、理由としては不十分だと思います。
(そもそも玉を詰ます駒は駒台にある「寝返った駒」であることがほとんどです。)
また、
「歩は安くて枚数の多い駒だから、打ち歩詰めを認めると勝負が大味になる」
という理由付けもありますが、
実際に打ち歩詰めが出現することはそれほど多くないので、これも理由としては不十分です。
私の考えとしては、打ち歩詰めを禁じ手とするに至った決定的な理由は、
「歩、角、飛の不成に存在意義をもたせるため」です。
もし打ち歩詰めが許容されれば、歩、角、飛の不成は全くの無意味になるので、
「歩、角、飛は敵陣三段目に入ると必ず成らなければいけない」というルールにすべきでしょう。
しかし、「成・不成」はあくまでも任意とし、駒の特性を自由に発揮させたいのが将棋というゲームです。
そこで歩、角、飛の不成を残し、存在意義をもたせるために、打ち歩詰めというルールを設けたのです。
今回のブログでは、将棋に4つの「禁じ手」がある理由について書いてみました。
かなり断定的に書いてしまいましたが、他にも色々な考え方があってよいと思っています。