渡部遼介オフィシャルブログ「Ryosuke’ Note」powered by アメブロ -249ページ目

ピクミン

最近は見向きもしなかった“wii”も、ふといじり出すと何日も画面の前に座りマイブームになっていた。

その昔、芸術といえば絵画や彫刻、舞台。そして現在ではTV-GAMEが新しい表現方法になって久しい。

近ごろのはストーリーが練(ね)りに練って、多くのクリエイターの叡智(えいち)である映画をも内包(ないほう)する状況になっている。
店を覗いて、"PS3"の臨場感に負けないシーン展開には目を見張るものがあるが、"wii"は"wii"で新しい目線がまた楽しい。

今、遅まきながら“ピクミン”で遊んでいる。学生時代はクリアすることに夢中になっていたぼくも、スローライフの経験値を蓄(たくわ)えその過程(かてい)に感心したり。


もしもぼくがこのGAMEをひとり思いついたとしても、これ売れるとは思わないだろうな、と思う。
そしてこうした突飛なアイディアは、完成させるまでのディティールがなかなか定(さだ)まらず、いつしか面白くないんじゃないか、という煩悩(ぼんのう)に挫(くじ)けそうになったりして。。。


始まりはいつもなにかのワンアイディアでも、それを完成形にするのが、なんでも勝負の分かれ目だったりする。


たしかに成功しなかったハードもたくさん抱えてきたメーカーだが、そうした作者のアイディアに興味をもち、リスクを知りながらも前に進む姿勢を尊敬している。

そしてぼくはそうした妄想(もうそう)に浸(ひた)りながら、今日も不時着したロケットのパーツを探しに出かけるのであった。

すぐに判(わか)る。

当(とう)の脚本家がそのシナリオをもっとも理解しているかといえば、不思議なことにそうでないことが多い。

もっともそれ以外が決めうちをするのもナンセンスだが、いずれにしろ作品のポジションとは関係がない。


話してみれば、すぐに判る。

周りが受け入れてくれた自分

俳優は、状況を見極めることにかけては天才だ。だれがなにを求め、自分がなにをすれば良いかを十分に知り尽(つ)くしている。そのうえで作品のイメージに身を沈めていく。


一番やっかいなのは、ドキュメンタリーや報道等、本当に自身をさらけ出さなければならないとき。

キャラクターという言い訳はいっさい許されない。

そのときは自分を「リアル」に傾けなければならない。


しかし市井(しせい)の人間として振舞うのは、一見簡単なようだが、日ごろからの経験がものをいう。日常のあらゆる出来事が、知らず人間を培(つちか)っている。

だから毎日をぼんやりと過ごしていれば、観客の心を揺さぶるほどの核心は得られないし、さらには日常を知らない人たち。たとえば子役からずっと芸能界に身を置いていたり、箱入りで世間から隔離されていたりすれば、本当に人々のことが解らないのだろうと思う。


ただ、周りが受け入れてくれた自分、を演じるしか術(すべ)がない。


けっして他人事ではない状況に、作り上げたキャラクターの庇護(ひご)のもとに許される存在とは、いったいどれほどの意味があるのか、と考えざるを得ない。