『Innocent World 罪なき世界』
先行して一章だけ。
「働かないといっても、うちの店の若い子らふたりと、町にある小間物屋のおばあちゃんと、荒物屋(あらものや)のご主人と、蕎麦屋のおかみさんとコンビニの旦那さん。あの人たちは働いています。おばあちゃんは座布団を敷いた椅子に座って日がな一日うたた寝をしていますが」
「蕎麦屋とコンビニはよく行きます。蕎麦屋のかつ丼は卵が半分トロっとしてて美味しいですよね。亜弥のために小さいのを作ってくれます」
「えぇえぇ、以前は旦那さんが作っていて見よう見まねと笑いますが、あのかつ丼は美味しいです。それとコンビニの旦那さんなんて、何て言うんでしょうか、名前は知りませんが発注の端末を肩にかけて一生懸命打ち込んでいます。けれど、配送の車なんて来ないんです。でも、商品は売れても一夜があければ元に戻ります。お金もです」
「これが生きているうちだったら、パラダイスなんでしょうか、無限ループの地獄なんでしょうか」秋山さんが苦笑した。
私はポケットを探り小銭を取り出した。
「亜弥ちゃん」
呼びかけに振り返った亜弥ちゃんは、ちょっとだけ大人になった微笑みを浮かべた。
「喉は渇いてないかい? 何か買っておいで」亜弥ちゃんは、うん、とベンチから降りて走ってきた。
「駅長さんは?」
「あぁ、おじさんは大丈夫だよ。秋山さんもよかったらどうぞ」秋山さんは、いえ私はと手を振り、ありがとうございます、と頭を下げた。
「たぶん、今日が最後ですよ、三人で過ごすのは」
「あぁそうですね。では缶コーヒーをいただきましょうか。亜弥頼むよ」
「うん、びとうね。お兄ちゃんにさよならを言ってくる」小銭を握った亜弥ちゃんは、ピンクのワンピースと長い髪を風になびかせながら駆けていった。
「お母さんが生きていればそれでいいって、なんとも健気な言葉ですね。いいお子さんにお育てになった」私は万感の思いを込めて右手を差し出した。
「あの子が女房を呼ぶときは、必ずママなんです」強く握り返された。
「でも女房がいないとき、お母さんと表現するときがあるんですよ。ママはきっと女房の呼び名で、お母さんは血の繋がりを含めてといいますか、果てなく大きな存在を、幼い本人なりに表しているんだろうかと、勝手に想像したりして……かなりジンときました」
ひとは音もなく静かに涙を流すときがある。泣き喚くより重くて辛い涙を流すときがある。彼らは今、それを流している。最期を見届けなければならない。
手をつなぎ展望台に向かうふたりの背中を見つめた。それは厳(おごそ)かな儀式に向かう父娘のようにも、死地に向かう悲壮な戦士の後ろ姿のようにも見えた。
ベンチに腰をおろし午後の12時50分を指した腕時計を確認した。今日で終わるなら時間は延ばさなくてはならない。ふたりをしっかりと送らなければならない。
「美味しかったね」亜弥ちやんの声だ。
「うん、美味しかったね。亜弥はピーマン残しちゃったけどな。ママはプンプンさ」
笑ったのだろうか、小さな肩がふっと揺れた。どこかで外食でもしたのだろうか。
「ママ」双眼鏡を覗く亜弥ちゃんが声がした。これがあの子の最後の呼びかけになるのだろうか。吐いた息が少し震えた。
JUJU 『また明日』