ZERO ONE 「1」 | 風神 あ~る・ベルンハルトJrの「夜更けのラプソディ」

つり革につかまり目を閉じていると、到着駅のアナウンスが聞こえた。

手にもたせかけていた額を離し、うっすらと目を開けると、減速を始めた車窓の向こうに陽は暮れかけていた。

駅を出ると日中とは比較にならない涼しい風が、放課後にも似た解放感で賑う駅前の広場を吹いていた。

頭の中で冷蔵庫の扉を開けて中身を確認していく。
今日は買い物をしなくても大丈夫だろうと見当をつけて、青になった歩行者用信号を渡った。

逢魔が時。その言葉を教えてくれたのは彼女だった。
夕暮れ時の、お豆腐屋さんのラッパが鳴るころ。トーフーって。
音階はソーラーかな? ちょっと違うかな。音には自信ないな。



その豆腐屋のラッパというのを僕は聞いたことがないのだけれど、幼いころの彼女はよく耳にしたのだという。

物売りの声、人々のざわめき、風を受けた涼しげな笹の音。お昼寝、風鈴、お豆腐屋さんのラッパ。

体を左右に揺らしながら、好奇心ばかりで何も怖いものがなかった時代、と彼女は口にした。

異次元の世界に住んでたの?
まあ、東京じゃない田舎。でも、東京でも行くとこ行けば聞けるんじゃないのかなぁ。

それって、どこだろう?

例えば、葛飾区とか、墨田区とか、江戸川区とかね。相当あてずっぽうだけど。
彼女は柔らかく微笑んだ。



沈みゆく太陽を見下ろす空はまだほんのりと明るく、淡く瑠璃色に染まる街の景色は、古来ひとたちが恐れた、その光と闇の境界線をゆっくりと通過していることを教えていた。

立ち止まり、振り仰ぎ、家々の屋根が切り取る暮れなずむ空を見る。

街路樹の葉擦れの音とともにひとしきり風が吹き、彼女と出かけたどこかの高原の濃い緑の匂いを嗅いだ気がした。

風は、ゆるい足取りで家路につく僕の首筋を、事のついでのように撫でて過ぎて、やがて何事もなかったかのように静かになった。

今夜の帰宅時も、僕は陰鬱な顔をしているのだろう。

消えることのない苦悩の渦にもまれながら、僕は繰り返し、高瀬という男と交わした会話と、美玖とふたりで巡った季節と、彼女の抱えていたであろう苦悶(くもん)を、苦く振り返っていた。

ハウリングのように耳障りな残響。どこへ辿り着くはずもない、あてどもない推察。

ただ悔悟ばかりで、僕はちいさく強く頭を振る。そうしたからといって、何かが消え去るわけでもないのに。

賃貸マンションのエントランスのドアを押し開け、ネクタイの結び目に人差し指を掛けて左右に揺すったとたん、深く重いため息が口を突いた。

集合ポストを開けると、面倒で捨てずにいるチラシの上に小さな封筒が乗っていた。

手に取り思わず声が漏れた。
宛名の筆跡が誰のものであるか、裏返して確かめるまでもなかったからだ。

そこにどんな意味があるのだろう。赤いシールに書かれた配達指定日が今日の日付になっている。



気が動転してオートロックの暗証番号を二度も押し間違えた。
ドアを抜けて小走りになる。

キーホルダーのカギが上手くつまめない。ようやくつまんだと思えば今度は手が震えてカギ穴に上手くキーが入らない。苛立ちの混じった息がさらに手元を狂わせる。

ドアを引き、靴を脱ぎ捨て、かばんをベッドに放り投げて椅子に座った。

はやる気持ちを抑え込むように、はさみで丁寧に封を切った。
耳の奥で鼓動が強く打ち続けている。息苦しさに、ひとつ大きく、ふるえる息を吸い込んだ。


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