汚れなのか傷のせいなのか、ぼんやり曇った星のマークのサッポロビールのグラスに、男の割には華奢な手でキリンビールが注がれた。
「三周年おめでとう!」
男がグラスを持ち上げた。ちょっと薄暗い壁の煤けた炉端焼きの店で、ささやかな祝杯を上げるためだ。
「ヒロ君違うわよ。さ、ん、か、げつ」女は微笑みながら男の間違いを指摘してグラスに手を伸ばす。
「えーと……じゃあ、三周げつ、おめでとう!」男が再びグラスを持ち上げる。
「そんな言葉ないってば」女の声に、ちょっと首を傾げた男がグラスを引っ込めた。
「いいわよ、いいわよ。さ、乾杯しましょ」
「だよだよ」男は美味しそうにビールを飲み干した。
「さ、おつまみもどんどん頼んじゃってね。お祝いだからさ」
「あたしはね、ホッケ。決めてたんだ」女が薄汚れたメニューの文字をグリグリと押す。
「お、ホッケいいね。俺はね、焼鳥の盛り合わせとね……肉豆腐にしようかな」
「おっ、永ちゃんだ」ホッケの身を箸でほぐしていた男の目が少年のように輝く。
「この店有線流してるからいいんだよね。行くよ行くよ! 聴いて聴いて! 罪なやつさぁ~ああパシフィック~碧く燃える海ぃ~どーやら俺の負けだぜぃえぃ」
「やめてよ恥ずかしい。お箸がマイクはありえないって」
「もうじき二周年だね、ヒロ君」
「うん、うん。二年経ったね」
「ヒロ君、ありがとね」
「ん? なに?」
「あたしさ、ちょっとフライングしちゃった。ヒロ君がんばってくれたんだね。ぴったりだった」
「え? な……なに?」
「もう……びっくり企画失敗させちゃってごめんね」
「だ、だから、なんのこと?」
「ゆ・び・わ」
「あ……え!?」
「嘘がつけないからさ。騙されてあげなくてごめんね」
「あ、あ、あ、いや、ち、違うんだ」
「何が?」
「あれ、あの、あの指輪さ、違うんだ。あれさ……アキラさんのなんだ」
「アキラさんのって? あれ、女性ものだよ」
「い、い、いや、違うんだ。アキラさんが、その、あれ、そう、びっくり企画で。そう、ドッキリで」
「育美さんに?」
「そそそそ、育美さんに。だから、預かっててほしいって」
「あれ、どう見たって育美さんのサイズじゃないよ」
「だからさ、痩せたんだよ。ダイエットしたんだよ、きっと。最近会ってないからわからないけどさ。絶対そうだよ」
「最近会ってないって……相談があるからって、一昨日の夜、育美さんに会ったんじゃないの」
「あ、あ、あ、そうだったそうだった。会ったんだ。だからさ、っていうか、今年の暮の二周年はあんまり贅沢できないけど、炉端焼きに行こ! でさ、帰って紅白見てからさ、神社に初詣に行こ。無料のお屠蘇を飲んでさ」
伏せられたコップ、飲みかけのビール。
女はテレビとこたつを消して時計を見た。
夜を震わすように、除夜の鐘の音が届く。
明かりを消した女はひとり、冷え切った布団に潜り込み、身震いをひとつした。
その震えが、心のせいなのか、体からくるのかわからぬままに、力なく目を閉じた。
想い出ぼろぼろ/内藤やす子
2006年5月28日の福島でのディナーショー中に脳出血を発症し倒れた内藤やす子。
自分が歌手であることを思い出したのは、倒れてから5年も後だったという。
2016年2月27日の会見では、約10年ぶりとなる芸能活動への復帰を発表した。
彼女がたどたどしく歌う『想い出ぼろぼろ』を聴きながら、僕は涙を禁じ得なかった。
稀代の歌い手でありながら、脚光を浴びたのはスタートだけだったような気がする。頑張って欲しいけれど、見たくはない気もする。僕はそんなに強い人間ではないから。
でも、遠くからだけど、応援している。
ここに、こんな男もいるんだ。
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