innocent world イノセント・ワールド「14」 | 風神 あ~る・ベルンハルトJrの「夜更けのラプソディ」

耳元を風が吹き過ぎ、展望台を夏の光が照らし出す。
木々が奏でる葉擦れの音は、放課後の教室に漂うざわめきにも似て、時に高く、時に低く、サワサワと行き過ぎた。



秋山さんの発した最後の言葉は、あの親子が車同士の衝突事故の類に巻き込まれたのであろうことを教えてくれた。

母親は何らかの都合で同乗していなかったか、事故に巻き込まれながらも運良く一命を取り留めたものとみえる。
しかし、助かったことを単純に幸運と喜びがたいのは、そこに愛する人たちとの別離を生じさせてしまうからだろう。

授けられた寿命をまっとうするのが人間の喜びであり義務なのだと、塩田さんは語った。ひとつの卒業とも呼ぶべき死は悲しむことではないと。

彼が展望台から消えた日も、今日のような青空だった。最後に驚愕するような短い声を発したから、やはり突発的な事故で命を落としたのだろう。

人の死は運命なんだよ。原因はどうあれ、その寿命通りに死んでゆくのが定めだ。
摂生に努めようが不摂生に生きようが寿命に変わりはない。

それと同じく、誠実に生きようとも不誠実に振る舞おうとも定まった日にこの世を去るのさ。
変わるのは安藤さん、人生の質だ。そしてそれこそが、何を置いても一番大切なんだよ。

塩田さんが教えてくれた言葉を私も多くの人に伝えてきた。しかし私も老いた。そして、いささか長くなりすぎた。
誰か代わりになる人を欲したとて、おいそれとは見つからないだろう。
しかし、自分に訪れた死がどのような形であれ、もう受け止めさせて欲しいと願う。

彼は……菅原君は、すべてを理解して、この仕事を引き受けてくれるだろうか。それとも先を急ぐだろうか。断られるのなら、もう少し頑張るしかない。

私は作業ズボンの尻ポケットから数珠を取り出し、展望台に向かい手を合わせた。

故知般若波羅蜜多(こち はんにゃ はらみった)=このゆえに偉大なる智慧を意味する般若波羅蜜多は

是大神呪 是大明呪(ぜだいじんしゅ ぜだいみょうしゅ)=神秘的呪文であり 無知の闇を照らす呪文であり

是無上呪 是無等等呪(ぜむじょうしゅ ぜむとうどうしゅ)=最高の呪文であり 他に比類なき呪文である



能除一切苦 真実不虚(のうじょいっさいく しんじつふこ)=この呪文が一切の苦厄を取り除くことは真実であって偽りではない

故説般若波羅蜜多呪 即説呪日(こせつはんにゃはらみった しゅそくせつしゅわっ)=そこで偉大なる智慧の呪文を示そう さあ呪文を唱えよう

羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦(ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃ てい)=往ける者よ 往ける者よ 悟りの境地に往ける者よ

私は習わぬ経を無心で唱えた。

菩提薩婆訶 般若心経(ぼじそわか はんにゃしんぎょう)=悟りよ 幸あれ! これぞ悟りへ導く智慧の要の教えなり

深く頭を垂れたそのとき、石で造られて鳴るはずもない地蔵の錫杖(しゃくじょう)が、しゃりんと乾いた音を立てた。




ゆっくりと目を開け、誰もいない展望台を眺めた。
ついさっきまで、なに疑うことなく会話を交わした亜弥ちゃん。そう、失った我が子と同じ年頃だった亜弥ちゃん。

しかし、もう二度と聞くことのかなわぬ声。この目にすることのできない愛くるしい姿。
その声に渇きを覚えて空を見上げた。

駅長さん! そう呼ぶ声と、くしゅりとした笑顔を、空と雲の間になぞってみた。


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