──まるでアレグロだな。いや、待てよ……もっと早いヴィヴァーチェか……。
ふと我に返り、益体(やくたい)もないことを真剣に考えている自分が可笑しくて、秋山慎太郎はふっと鼻息で笑った。
雨がフロントガラスを叩き、メトロノームのように忙しなく動くワイパーが、それを掻き飛ばしてゆく。

夕刻から降り始めた雨は間断なく降り続いていた。
しぶきを上げながら、倦むこともなく路面を叩く雨は、街灯の光と対向車のヘッドライトに照らされたアスファルトを、白く塗り替える。
静かな車内には、タイヤが水を咬む音と、ワイパーが動く音だけが響いた。

「寝ちゃったみたいね」
妻の声に角度を変えたルームミラーには、後部座席で横になる亜弥の姿が映った。どっちに似たのか、一度眠ってしまうと頑として目を覚まさない子だった。
「思った以上に美味しかったわ、あのお店。開店割引もあったし、上出来だったわね」
誰の誕生日でも記念日でもなかったが、新規開店で気になっていた店に、家族三人で食事に出かけた帰りだった。
「食事の後片付けやら、洗い物もしなくていいしな」
「そうそう、それが一番のご褒美」と、笑いながら手を叩いた。夕食の家事から解放されたことを、妻はことのほか喜んでいた。
「いつも申しわけないね、食べっぱなしで」
「改まってなに言ってるのよ」ふんっ、と鼻息を吐いた割には、嬉しそうな横顔は変わらなかった。
「でも、やっぱり残しちゃったわ」
「なにを」
「ピーマンよ」細長い輪っかにした両手は、ピーマンを表しているらしい。

「にんじんもそうだけどさ。亜弥の好き嫌いがねぇ……だってさぁピーマンを抜いたら絶対に青椒牛肉絲じゃないわよ」ため息混じりに頭をゆらゆらと動かした。
「お前の作るピーマンの肉詰めもだね」
「そうそうそう、あれじゃ変な形のハンバーグだし」
「ピーマンだけ食べて中身残されるよりいいじゃないか」
「もう! お肉とピーマンが剥がれないように小麦粉を茶こしで振りかけたりしてるんだから。あれで一つの料理なのよ」
「それはそれはご苦労様。でもさ、にんじんやピーマンを食べなくて死んじゃった人って、俺、知らないなあ……無理して食べさせようとしなくたっていいじゃないか」
「あーあ、甘い父親だなぁ」

「絵美子……あの車、なんか変だな」顎をしゃくった前方には、黄色い軽乗用車が足下の定まらない走り方をしている。
「ちょっとよろけてるわね。あれ、エッセよね。黄色いエッセなんて女性の初心者かしら」妻がのぞき込むように身を乗り出した。
「追い抜いた方がいいな。それとも先に行かすか……事故ったらたまったもんじゃない」
車間距離を取りながら様子を見た。やがてテールランプを赤くして止まったエッセを、ヘッドライトが照らした。後方を確認して横を通り過ぎた。路面に溜まった雨をタイヤが切り裂く音がした。
そのときだった。
「ださい!」と、叫びにも似た声が、篠突く雨を縫って車内に届いた。
「なんか言ってるわよ。それに男の人だわ。不気味だわよ、あの声」
ルームミラーを見ると、遠ざかるエッセの窓から男が身を乗り出し、さかんに手を振っているのが見えた。
ポチポチッとクリックお願いします。

短編小説 ブログランキングへ

にほんブログ村