三角兵舎じゃないことに鳴海はほっとしたが、そんなことを言っている状況ではないことを思い出してしまった。
こちらに気がついた若い看護婦が歩み寄ってきた。
「鳴海さん熱が高いですよ」
「ひょっとして倒れたんですか」
「ええ。痛むところはありませんか?」
鳴海はベッドの中で足を動かし両腕を伸ばしてみた。
「大丈夫だと思います。それより妻と娘は、助かったんですか?」
鳴海の問いに、看護婦は壁掛け時計に目をやった。鳴海もそれを目で追った。11時を少し過ぎていた。看護師は答える気がなさそうだった。良い知らせなら口を開かない理由はない。
「妻と娘は助かるんですか?」無理を承知でもう一度尋ねた。
「あとで先生がお見えになると思います。これ以上熱が上がるようだったら座薬を入れますね。それとお昼の食事は用意しませんけど大丈夫ですか? 動けるようだったら一階に食堂がありますし売店もありますので」
看護師では埒(らち)があかないか。ベッドに肘を突き、起き上がろうとした鳴海はひどいめまいに襲われた。ふぅ、とため息をつき、目を閉じた。
「杉浦さぁ(さん)のあんべ(案配=具合)はどげんな?」
「まだ熱が高かようです」
「風邪じゃろかい? 夜はまださんか(寒い)でなぁ、こいでもし飛べんごとなったら、ぐらしかぁ(かわいそう)」
「体ん弱かとですか?」
「うんにゃ、知らん。ここで知りおうたでなぁ。しかし、こん人の飛行技術は並じゃなか。たたき上げの飛行機乗り、そいも、歴戦のパイロットじゃろ。そいが、ないごて特攻になぁ」
「優しか顔をしとるばってん……」
「あぁ、明日でよかで、靴下ん穴がほげっ(開いて)しもうたで繕いをしてくれんか」
「今やりましょか」
「明日でよかが。洗濯いつもあいがとな。さっちゃんな、こまんか(小さい)体でよう気張っちょ。かろうた(背負った)カバンに押し潰されんごとせんとなぁ」
「外園(ほかぞの)さぁが肥えすぎじゃっち」
「やじょろしかぁ(うるさい)」爽快な笑い声が遠ざかり、枕元で小さい笑い声がした。
またこの夢か……。
「目が覚めもしたか? 外園さんの声は太かから」
「ここは……知覧(ちらん)だね」
「杉浦さんな、お熱が出て記憶が飛んどりもはんか」サチと名乗った娘は心底心配したように眉を曲げた。
東京に住んでいた学生の頃、夏休みを使って鹿児島に旅したことがある。ゼミの先生の「日本人であるなら、一度は知覧を訪ねるべきだ」という言葉に押された形だった。観光をかねて鹿児島市内に宿を取り、維新の英傑西郷隆盛最期の地、城山に登り、桜島に渡った。
何を買おうとしたのかは忘れてしまったが、天文館近くの店にいるときに鼓膜が圧迫される不思議な現象に襲われた。
「噴いた噴いたぁ。夏じゃっでへがふっど」
鹿児島の言葉は九州全般のものとはかなり異なり、短縮化する特徴を持っている。津軽弁と並んで日本で最も分かりにくい方言としても有名だ。
へがふっど。灰が降るよ。どうやら観光客だと見抜いた自分に向けて発した店主の言葉だった。夏だから東風に乗って市街地に火山灰が降る。そう言っていたのだ。その言葉どおり、やがて町は灰色に霞(かす)んだ。
その旅のメインイベントとして知覧を訪ねた。知覧特攻平和会館は胸が痛むような資料が数多く展示されている。

九州の南、薩摩半島南部の中央にその町はある。武家屋敷が多く残り、薩摩の小京都と呼ばれる山間の小さな町だ。
盆地になったその町外れの小高い丘に、陸軍知覧飛行場が完成したのは日本軍の真珠湾攻撃によって太平洋戦争(大東和戦争)が開戦した1941年(昭和16年)のことだった。今は畑になっているが、広さはおよそ200ヘクタール(1km×2km)という広大な敷地だった。
知覧は戦争末期の1945年(昭和20年)、戦局の悪化に伴い沖縄戦における本土最南端の陸軍特攻基地となった。日本各地で飛行訓練を積んだ彼ら特攻兵は、知覧の地で4.5日間の訓練の後、特攻を掛けるべく沖縄を目指した。
陸軍の沖縄戦で散華した特攻隊員は1.036名、そのうち知覧から出撃したのは436名だった。
20歳前後の少年航空兵や学徒航空兵たちが、250キロ爆弾を抱えた陸軍一式戦闘機「隼」や三式戦闘機「飛燕」、四式戦闘機「疾風」の操縦桿を握りしめて飛び立っていった。
特攻といえば「神風特別攻撃隊」として広く認識されている。しかしそれは海軍の特攻隊の名称であり、陸軍は振武隊と呼んだ。現在は双方を「神風」と呼ぶ。
この地で特攻が始まったのは3月。米軍が沖縄本島に上陸したのが4月1日。
6月11日5時20分、悪天候を突き3機の特攻機が飛び立ったのが、知覧における最後の特攻出撃となった。そして8月には戦争が終わった。
満開の桜の花が一度に散るように潔く死ぬ。特に戦死することを「花と散る」という。しかし、負け戦が決定的になった時期の彼らの死を「散華」と呼んでいいのだろうか。かつて平和会館を訪れた鳴海はそんなことを思った。

「サチさん、熱で頭が変になったようだ。今は何月かな?」
「4月ですよ、4月の11日です。杉浦さん、ほんのこて(ほんとうに)大丈夫ですか?」
航空戦力の枯渇した沖縄戦の末期には、九九高練や二式高練。海軍の練習機『白菊』のような練習機までが特攻に投入されていったという。
『赤トンボ』の愛称で親しまれていた海軍の複葉の中練までも投入されたという記述も読んだ記憶がある。特攻は学徒動員があって初めて成り立った人命無視の戦法だった。
「じゃあ、まだ隼があるね」
「杉浦さんの飛行機は隼ですがね。僕の愛機だよ、一式戦の二型だよって初めて会うたときに言うとったじゃなかですか。しっかりしてください」
サチは泣きそうな顔をした。
あぁそういうことか、杉浦という人物は生粋の飛行機乗りなのだな……鳴海は苦笑した。
一式二型か。隼があるなら、杉浦という人物はなんとか特攻を成功させるだろう。
旧日本軍の戦闘機といえば海軍の零式艦上戦闘機、零戦があまりにも有名だ。攻撃こそ最大の防御と言わんばかりの零戦は、戦闘能力はずば抜けていたものの、防弾性能は紙と呼ばれるほどに脆かった。米軍にしてクレイジーと言わしめた戦闘機だった。
一方、陸の零戦と呼ばれた隼は防弾性能が高く、航続距離と旋回性能とある程度のスピードを実現したバランスのとれた陸軍の名機だった。エンジンは零戦と同じものを積み、航続距離は驚異的な3.000kmを誇った零戦よりも長かったとも言われている。

しかし、もうこの時期は敵国の戦闘機の性能には及ばなくなっていた。最高速度は515km/hしかなく、武装は大口径20㎜砲を搭載した零戦に比べ12.7mmの機関銃2門のみであり軽量化のための犠牲は機体にも及んだ。
そのもろさを見抜かれてからは敵の戦闘機は急降下で逃れた。隼で無茶に追えば、翼の振動が加速度的に増すフラッター現象で翼がもぎ取られ、空中分解を起こす。
それでもなお、可憐な乙女を思わせるもろさと、じゃじゃ馬並の加速力と旋回性能は魅力であった。
鳴海はふと疑問を抱いた。これを考えているのは鳴海修作だろうか、それとも杉浦という人物だろうかと。
零戦と隼がなければ、日本はもっと惨めな負け戦になっただろうとさえ言われる。陸軍初の引き込み脚の戦闘機。海軍の零戦に比べ華奢な姿だったが、初期の頃は連合軍に零戦と誤認された。
連合軍のコードネームはOscar……。
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