遥かなる昔、荒野に暮らす部族たちを恐怖に陥れる出来事があった。なんの前触れもなく黒い魔物の群れが襲来して、人々の命を次々と奪っていったのだ。
なすすべのない民たちはシャーマンを頼り、神にすがり祈り続けたが、あらゆる手立ては魔物に通じることはなかった。
子を喪(うしな)った母は泣き狂い、親を喪った子らは絶望に涙した。
容赦のない魔物はそんな彼らをも無残に殺戮していった。平和であった荒野は、やがて累々たる死体で埋まっていった。
人々の絶望の叫びが天を突き動かしたのか、あるときそこに、眩(まばゆ)く輝く黄金(こがね)色の剣を振りかざす、勇猛なる部族が躍り出た。
彼らは人々を導き、人々を慰め、人々の盾となり、わずか数日のうちに魔物どもを一掃して、何事もなかったかのようにその場から去っていった。
なにかの出来事が形を変えて言い伝えられた伝承であるのか、歴史上の事実であるのか、むろんそれを知っている者はいない。
しかし祭りは連綿と引き継がれ、魔物を撃退した勇者に感謝を捧げ、永劫(えいごう)の平穏を祈るため、近隣や遠くの村々から人々は町に集(つど)った。

ラクダを餌場に繋ぎ止め、イエナは町なかを歩いた。オアシスの畔に栄えるその町は祭りで賑わっていた。その中に、イエナはかの族長の娘を見つけた。そばにはお付きの女もいたが、それは瞳の美しいシェリではなかった。
「ご機嫌はいかがですか」イエナはその一団に近づいて声を掛けた。
「これはこれはイエナ様」
「相変わらず麗しい」
「わたしをお口説きになるおつもりで? それともシェリがお目当てですか」
図星を言い当てられてイエナは狼狽えた。
「いえ、そのようなことは……シェリ殿は、今はお付きをなさっていないのですね」イエナは己の耳たぶが熱くなるのを感じた。
「つい先日亡くなりました」
「それはまことに!?」
時が満ちる前に、それは動きを止めてしまったのか。何という理不尽。イエナをずしりとする悲しみが襲った。
「そうでしたか。お亡くなりに」
「ああ、いえ、シェリの母親です。まだお若かったのに病に伏し、幾日も持たぬうちにこの世を去りました。シェリは弟や妹たちの面倒を見るため、お付きをやめました」
「そうですか、お元気にお暮らしなのですね? それは何よりです」
イエナは安堵した。そう、縁などつながなくとも生きていればよいのだと、素直に思えた。
「シェリ!」
族長の娘は後ろを振り向いた。
「いるのですか!」
「この場にいたらどれほどか面白かろうかと」娘はいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「なんと悪い冗談を」
「はい!」遠くから女の声がした。
「荒野きっての優美なお方がシェリを所望のご様子じゃ」娘は大勢の人で賑わう広場に向かって声を張り上げた。
「いらっしゃるのですね!」
「さて、現れるのはご希望通り、シェリでしょうか」娘は顔を寄せ、企みを含んだ三日月形の目で微笑んだ。
「はい」つんのめるようにして立ち止まった女は、紛れもなくシェリだった。
シェリは何度も瞬きをした後、驚いたように頭を下げた。両の耳で編んだ髪が鞭のように跳ねた。
「シェリ、この方はお優しい方です。婚礼話の際も、自らが悪者におなりでした。よいご縁になればわたくしも嬉しいかぎりです」
「お付きをやめたというのは」イエナは小声で訊ねた。
「さらなる冗談でございます」娘は口元に指先を当て、ぷふっと笑った。
「母御がお亡くなりになったというのは」
「それは本当にございます。でも、悔やみの言葉程度で深くはお触れにならないほうがよいでしょう。シェリはまだ若いゆえ傷も深いことでしょうから」
シェリは目をぱちくりとして二人のひそひそ話を見つめていた。
「シェリ殿、ところで私のここに付いているのは何でございましょう」
「気になって仕方がないのでしょうか」
「はい、先ほどより気になって」
「それは……」
シェリは右手で日差しよけの庇をつくって、イエナを見上げた。
「わたくしの声が聞こえておいでなら、それは耳でございます。とれませぬ」
シェリは笑いをこらえるようにうつむき、イエナを上目遣いで見た。
翌年、その女シェリはイエナの妻となった。
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