─父の背中─
「具合が悪そうですが、風邪でも引きましたか」
心配げな斉藤の声に私は首を振った。
「いえ、風邪ではないんです。最近時々頭痛がするようになって。でも、こんな状況では、心も体もおかしくなりそうです。自分の年齢も忘れて、私を母と勘違いしているぐらいですから。こんな日が来るとは思ってもみませんでした」
斉藤は口を引き結び、何度も頷いた。
「菅原さん、少しお痩せになったようですね」
横を向いた斉藤の視線の先に、またぞろベランダにしゃがみ込み、枯れた観葉植物の葉をもいでいる父がいる。
意味もなく怒り出すわけでも、猜疑の固まりになって責め立てるわけでもない。家を出ることもないから徘徊をして警察の世話にもならない。扱いやすいといえばそうなのだけれど、その背中に、煩わしさと共にやはり一抹の寂しさを覚える。やがて自分が誰かも忘れ、私を赤の他人として接してくる日が訪れるのだろうか。
「食欲があまりないんです。朝の8時頃にトーストを少し食べて、10時頃にお茶漬けをほとんど残しましたから」斉藤が深く同意するように頷いた。
「食事を二度作る面倒はありますが」
「奥さんも根を詰めずに、気長に介護された方がいいですよ」
「娘の穂波です」
「ああ、すみません。私も頭が混乱してしまって」
「斉藤さんには申し訳ないと思っています。父の妄想におつきあいしていただいて」
「これもカウンセラーの仕事の一部だと思っていますから」煙草いいですか? 斉藤が自分の胸ポケットを触った。
「どうぞご遠慮なく。今コーヒーを淹れましょう」
「あ、いただきます」斉藤が小さく頭を下げた。
「それと、ご自分で娘さんを迎えに行くと言っていますが」
「ああ、忘れてしまいますよ」
「そうですか」煙草の先が赤く燃えた。うん、そうでしょうね。斉藤は遠慮がちに、横に向けて煙を吐いた。
「斉藤さんもご存じのように、私の通った幼稚園なんてそばにはありません。父の頭の中では、ここはまだ東京なんですね。それが何というか、少しだけ胸が痛いです」
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