僕の前世? | 風神 あ~る・ベルンハルトJrの「夜更けのラプソディ」
前世は何だったと思う? ブログネタ:前世は何だったと思う? 参加中



突如炎と黒煙がまわりを包んだ。
押せども引けどもドアは開かない。窓も開かない。車の中は一気に熱くなった。ガソリンの匂いが鼻を突く。息が苦しい。
そして、子供の泣き叫ぶ声。
僕はドアのガラスに肘打ちを噛ました。うなり声を上げながら何度も何度も肘を打ち付けた。やがて骨が砕けた。

今度は頭をぶつけた、幾度も幾度もドアのカラスに向かって頭突きをくり返した。
そんなことで割れるわけはないことは、僕が一番よく知っていた。
子供の泣き叫ぶ声。
僕は絶望感に襲われながら、炎で熱くなったガラスに、流れ出た血でぬるりとする頭で頭突きをくり返した。

無理だと分かったなら、どうして僕は子供を抱きしめてあげなかったのだろう。抱きしめたまま一緒に死んでやらなかったのだろう。いや、それでも僕は、一縷(いちる)の望みに掛けたのだ。


これはもちろん実話ではなく、ましてや微睡(まどろ)みの中の夢でもないのだけれど、現実の僕は曲がり角が怖い。十字路であろうと三叉路であろうと、信号のない見通しの悪い曲がり角が怖い。

あれは下北沢から池の上に向かって歩いていたときだろうか。緩い上り坂、十字路のたびに立ち止まって左右を確認する僕に、同僚が言った。
「○○さん、変ですよ」
そう、確かに変だ。静かな住宅街の昼間、車が走ってきたら音で分かる。夜であるならライトで分かる。それをわざわざ立ち止まって左右を確認するのは明らかに奇妙に映るだろう。
この癖は今はもう大分薄れてきたけれど、いまでも曲がり角は歩くスピードを緩め、前屈みになって左右を確認する。

それから僕は、子供の泣き声が嫌いだ。かといって、子供が嫌いなわけではない。小さい子供の笑い声やはしゃいだ声、それを聞いていると知らず知らずに微笑んでいる自分がいる。
幼い子の笑顔は、まさに心がとろけるようだ。

でも、泣き声は嫌いなのだ。泣いている理由が分かっているのならまだいい。
あぁ、この子は何かを買って欲しくてだだをこねているな。あぁ、この子はこの場所を離れたくないのだな。
あぁ、この子はだっこして欲しいのだな。

でも、理由の分からない泣き声というのがある。もちろん他人様の子供の泣く理由など分かるはずもないのだが、その火の付いたような泣き声を聞くと、僕が気が狂いそうになる。本当に気が狂いそうになる。

一瞬迷子になった幼い子を見ると、心臓がトクンと跳ねる。だから僕は、
「お母さん、いないの?」と声を掛ける。幼い子は、今にも泣きそうな目でこくんと頷く。
親はというと、子供の存在を忘れたかのように買い物かごを下げてのんきに買い物をしていたりする。あの神経が僕には分からない。

この二つの謎を合わせてみると、冒頭の物語が出来上がる。
僕は、助けを求めて泣き叫ぶわが子を、この手で救うことができなかった父親であるのかもしれない。
それが、前世の僕であるような気がする。

僕は車を運転しない。
あの小道から、あの空き地から、今にも子供が走り出てくるのではないか。
今にも、サッカーボールが転げ出て、直後、小さな子が走っているのではないか。
自転車が信号を無視して走ってくるのではないか。
あの公園から、頼りなくも走ることを覚えた幼子と、それを追いかける母親が不用意に出てくるのではないのか。

僕が運転していて安心できたのは、高速道路だけだった。事故が起こっても、死ぬのは自分だけですむだろうから。

教習所で適正テストのようなものをやらされるのだけれど、結果は、「優良なドライバーになるでしょう」的なものだった。
でも、その前に、僕の精神が摩耗すると感じた。だからもう、車は運転しない。
結果、ゴールド免許だ。運転を続けていたとしても、そうだったはずだけれど。

そうだそうだ、車のある時代に生きたということは、輪廻のサイクルが早いはずだ。ということは、僕は修行の足りないポンコツ魂なのかもしれない。
ポンコツだからこそ、迷い苦しむのかも……。







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