警戒警報もなく、いきなり空襲警報が鳴った。佐智は空を仰いだ。
特攻機を掩護(えんご)する飛行隊員たちが掩体壕(えんたいごう)に走る。しかし、すでに無理だと判断した様子で、宙をにらんだまま動きを止めた。邀撃(ようげき)は諦めたようだ。
「佐智! 早よう逃げんと!」遠くから呼ばわる声に撃たれるように、佐智は走り出した。
日本軍の飛行機とは違う、腹に響く熊ん蜂のような音。米軍の艦載機だ。佐智は防空壕のある方へまっしぐらに走った。
音が近い。走りながら見上げると、ずんぐりむっくりとした機体の群れ。グラマン(F6Fヘルキャット)だ。
キーンという耳障りな音がしてくる。急上昇の音とは明らかに違う、急降下音だ。
足がついていかず前のめりに倒れて、額を思いきりぶつけた。地面に手を突き、膝を突き、起き上がった。走った。恐怖で膝に力が入らない。
掩体壕(えんたいごう)で特攻機の偽装を外していた整備兵が、こっちへ逃げてこいとばかり、腕招きをする。
4メートルほどの土塁をコの字型に積んだ掩体壕。空襲から戦闘機を守るためのその掩体壕は、まさに、杉浦さんの隼の偽装を外してあげた場所だった。
「走れ、走れ!」整備兵の声が励ます。
足がもつれて、また転んだ。耳をつんざくほどの轟音。近すぎる。立ち上がったが、足が萎えたように言うことをきかない。
「やっせん!」
腿を両手で叩いて足を踏み出したが、もう走れなかった。足が、動かない。
バリバリバリッ、機銃の音が迫る。
伏せてはいけないことなど知っている。標的が大きくなるからだ。それでも佐智は、恐怖で体を縮めるように伏せた。
「伏せちゃダメだ! 走れ走れ走れ!」整備兵の悲鳴に近い声がする。
杉浦さんは言った。佐智、スカートが捌ける時代がもうじき戻ってくるよ、と。
もんぺじゃなくて、またスカートが捌ける時代がね。
僕の母は体を悪くして、僕以降に子供を産むことはなかった。だから佐智を、とても可愛く思う。
右前方からすさまじい土煙が迫ってきた。機銃掃射だ。
佐智、誰の命にも時間の制限がある。その時間がいつ訪れても悔いの無いように、これからも精一杯生きなさい。僕の分まで。
グラマンを操縦する米兵の顔が見えた。顔を真っ赤にした赤鬼。
「佐智はもうだめです!」
胴体が勝手に弾む。背中一面を、熱い衝撃が通り過ぎた。
「迎えに、来て……」弱い呼吸に合わせて、鼻先で土埃が舞った。
☀☀☀
「すみれの様子はどうですか? 寂しがっていませんか?」
「おまえだってまだ回復していないんだから、焦ることはない。心を穏やかに治療に専念しなさい。今は回復することが一番大事だ」
「そうね……」
納得はしていないだろう。しかし、すみれの様子など伝えようもない。早紀は窓の外に顔を向けた。
「こんなことがなければ、今日はスーパーで遊ぶ日だったのにね」誰にともなく、呟くように、早紀が口にした。
「ああ」
「来週は行けるのかしら?」
言葉に詰まる。今はまだ真実は語れない。けれど、これ以上、嘘はつきたくなかった。せめて治療が終わるまでは 早紀の心を潰してはならない。
しかしこれは、言葉にしていなくても、いや、していないからこその立派な嘘。
それも、優しさの欠片もない、残酷な嘘。
早紀はきっと、すみれの死も知らずに発した自らの言葉を、悲しみと共にきっと反芻するだろう。己を咎めるように、幾度も幾度も。
思い浮かべたスーパーでの風景も、来週はいけるのかしら、の言葉も、彼女をナイフのように切り刻む。
すみれは斎場に搬送された。明日は焼かれて小さな骨片になる。
☀☀☀
特攻機がおよそ110機、掩護(えんご)の戦闘機が60機、しかし特攻機の何機かは、機体のトラブルで引き返した。悪天候により多くの特攻機が進発基地に戻ることは珍しくなかったが、今日は天候に恵まれた。
第二次総攻撃の最終日。各地の飛行場から陸海軍の特攻機が集まってきていた。相当消耗したのか、あるいは温存か、海軍の神風には零戦が見あたらない。
特攻の機種は様々だ。2枚プロペラに下駄履きの九七式もあれば、隼もある。三式戦闘機〝飛燕(ひえん)〟、百式司偵(百式司令部偵察機)ともに隼の速度を超えている。さらに、最高速度624km/hという四式戦闘機〝疾風〟は実用化された日本製戦闘機の中では最速だった。隼より100m/hも速い。
隼の前方を、車輪を突き出したまま飛んでいる飛行機が見える。九九襲(九十九式襲撃機)だ。パイロットと偵察員の二人乗りの九九襲には、律儀に二人が乗っている。
九九襲は優れた機体ではあったが、すでに時代に置き去りにされた下駄履きの飛行機だったため、特攻の主力機となった。
隼の機首と回るプロペラの先に、白い雲を散らす青い海が広がっている。やがて水平線の彼方に島影が見え隠れする。直接護衛機のパイロットが大きな仕草で前方を指さす。あれが沖縄か。
突入路を開く間接支援機はすでに先行している。
護衛の戦闘機がスピードを上げて飛び去っていく。先行の戦闘機が撃墜できなかった迎撃機が向かってきたのだ。
はるか先で、戦闘機が舞い乱れる。迎撃機の群れと護衛の戦闘機の空中戦だ。
そうだ。なぜ杉浦は護衛のパイロットを選ばず特攻を選んだのだろう。これなら特攻を志願せずとも得意の空中戦ができるはずだが。
掩護(えんご)機が撃墜できなかったグラマンが数機飛んでくる。その後を掩護機が追う。こっちは重い爆弾を積んでいて動きが鈍い。黒煙と炎を上げて撃墜されていく特攻機も見える。
「こいつら」つぶやきが聞こえた。ふっと辺りを見まわし、それが杉浦の口から出たものだと気づく。
この男、もの静かな割に血の気は多いようだ。操縦桿を引き、隼は上昇を始めた。
「おあいにくさま。この隼はちゃんと撃てるんだよ」
またつぶやきだ。特攻機は、武装と防弾板を取り外した機も多かった。
重い機体に引っ張られるように急旋回した隼は、上昇してくるグラマンめがけて降下した。血流が、体にかかるGでままならないことが分かる。
カタカタカタカタッ!
機銃が立て続けに撃ち出される。すれ違いざま2機のグラマンは黒煙を上げた。
250キロ爆弾を抱えてグラマンとやり合うとは、やはりこの男、優れたパイロットだ。
沖縄本島に近づくにつれ、雲の狭間から見える敵艦船の多さに驚かされる。もちろんお互いの高射砲や機関砲の射程外を維持してはいるのだろうが、海を埋め尽くすかのようだ。
外側を守るように配置されているのはレーダーを積んだピケット艦だ。現在のイージス艦にあたる。迎撃機の飛んでくる速さから見て、とうの昔に特攻機は捕捉されている。だからこそ、あれほど早くグラマンが飛んできたのだ。
杉浦はそれを分かっているだろうか。頭の片隅で鳴海は思った。まるで多重人格者のようでもあった。
ピケット艦に向け、急降下で特攻を仕掛ける戦闘機が見える。まだだ。隼は先を目指した。血が騒ぐのか、機体トラブルで飛行は無理だと諦めたのか、護衛機でありながら、特攻を仕掛ける機も見えた。
やがてひときわ大きい艦船が前方に近づいてきた。
友軍機のパイロットに左手を挙げる。鳴海の仕草に応えるように、男は右手で握り拳を振り上げた。昨夜、初めて会話を交わした青年だった。
〝海軍の町〟長崎は、圧倒的に海軍志願者が多いのだという。そんな中、みんなと同じは好かん、と、陸軍を志願した男だった。教えてもらった不思議な指遊びは覚えきれなかった。
出ん出らりゅうば 出て来るばってん
出ん出られんけん 出て来んけん
来ん来られんけん 来られられんけん
来―ん 来ん
出ようとして出られるならば、出て行くけれど、出ようとしても出られないから、出て行かないよ。
行こうとしても行けないから、行くことはできないから、行かない、行かない。
戦闘機の狭い操縦席は、まさに、出ん出られんけん 出て来んけん、だな。出た時は五体が整合性を持たない。砕けた頭蓋の上を千切れた足が飛んでも、おかしくはないのだ。
『中尉殿、不思議なことに長崎には大規模な空襲がなかとです。そのうち大きいのがドカンとやってくるんじゃなかとって、母が心配しちょりました。早うアメリカなんぞ、やっつけてきよってって』
一時帰省の折り、特攻に志願したことを、母親には告げなかったそうだ。我が子を特攻で死なせてまで、戦争に勝ちたい母親などいないだろう。
『福岡の大刀洗に向かう汽車に乗ったとき、駅のホームの端っこまで母は追いかけてきよったとです。何も言わなかったけれど、目に涙を一杯溜めて。母は気がついていたのかもしれません。今度生まれ変わるなら、戦争のなか時代がよか』
三角兵舎の中で、彼は静かに語った。
高度を下げつつ右に旋回する。右の翼の先に海。左の翼の先に空。鳴海は風防天蓋(ふうぼうてんがい)を閉めた。
もってくれよ隼。左手でスロットレバーを絞り、足の間の操縦桿を必死に押さえ、敵艦に目標をセットする。狙うはもちろん空母。その空母は円運動を始めている。隼のもろい機体に注意をはらいながら急降下に入った。
急降下は45度から50度。しかし浮き加減になる隼は、せいぜいが30度ぐらいの緩慢な降下になる。鳴海はタブと呼ばれる昇降舵で機首が下がるように修正しながら、海面めがけて真っ逆さまに最大角度で突っ込んでいった。ガソリンの匂いがぷんと鼻を突く。
ダメだ足りない! 突入角度が緩い!
これ以上機体を空に晒しておくわけにはいかない。早く海面に到達しなければ。
海面すれすれを飛び、敵艦の土手っ腹に突入する。これは出撃前から杉浦が考えていた突入方法のようだった。砲門が多く並ぶ横から突入するとは何という無謀さだろう。
再び機体を戻した隼は背面飛行に入った。空と海が逆転する。そのまま一度遠ざかる。
操縦桿を引く。頭上の海が徐々に目の前に移っていく。機体は落下するように機首を海に向けて突っ込んでいく。スロットルを開き速度が乗ったところで緩める。
体全体に強いGがかかる。視界の大半が海になる。黒々とした煙の塊が空に散り、遅れて音が響いてくる。敵艦からの迎撃が始まった。
通称ポムポム砲と呼ばれる多連装の高射機関砲。雨あられとはこのことだろう、避けることなど出来ない。左上空で黒い煙が上がった。翼の付け根から炎を上げて友軍機が錐もみで墜ちていく。
ろくな操縦技術を学ぶ間もなく、精神を鍛える時間すらなく特攻に行かされた学徒だろう。彼らに比べ飛行機乗りは選ばれし人間だ。100人いても2人と存在しえない運動能力をもち、肉体的にも精神的にも常人の域を超えている。しかし、彼らは学業の途中でかり出された学生だ。
なんと哀れな。
特攻に来ながら、敵艦に近づくことすら出来ずただ撃ち落とされて死んでいく男たち。友もいただろう。心ひそかに思いを寄せる人もいただろう。恋文のひとつも書いただろうか。恋する人のその手に触れただろうか。父母は泣くだろうに。
指揮を執る者たちは、火の粉の及ばぬ所にいる。毎夜飲んだくれている上官もいると聞く。
Gに耐えながら操縦桿を引き絞った。速度およそ600km/h、隼はこれをオーバーすれば翼がもぎ取られる恐れがある。足踏桿のベダルを操作しながら隼にブレーキを掛ける。視界の上方から敵空母が降りてくる。
しまった! 操作が遅すぎたか! 海面が思いの外近くに迫ってきた。250キロ爆弾は、杉浦の操縦技術をも狂わせたか。鳴海は歯を食いしばりながらいっぱいっぱいの操縦桿をさらに引いた。ここまで来て海に突入して死ぬなどまっぴらだ。
上だ隼! 上昇しろ! 上昇してくれ隼! 鳴海は声を張り上げた。
やがて隼は海面スレスレを這うように水平飛行に移った。海面からおよそ3メートル。高度計の針はマイナスを示して役に立たない。プロペラの風圧で海面に水しぶきが上がり眼前を覆った。
もう少しだ、もう少しで砲撃から逃れられる距離に近づく。右に左に砲弾の水柱が上がる。隼が右に流れる。と間もなく左に曲がる。スラロームを描きながら隼は確実に空母に近づいていく。
隼を正面から射止めるのは難しいはずだ。薄い翼にスリムなボディ。遠くから見れば横棒の真ん中に小さい丸を描いた程度にしか見えないだろう。なるほど、杉浦はこれを狙っていたのか。
空も海も青かった。ただ、前方で波飛沫をあげながら進む空母だけが、異様な生き物に見えた。砲撃の及ばない距離まで近づいた時、鳴海は風防天蓋を開けた。猛烈な風が操縦席に巻き起こる。
これにより若干スピードは落ちる。爆弾を落とすより遅い戦闘機が激突しても、思ったほどの破壊力は生まないから、できればスピードが欲しい。それでも最後の新鮮な空気を吸おうと、鳴海は思った。
艦上を逃げ惑う敵兵たち。彼らに恨みはない。戦争などなければ分かり合えたかもしれない若者たち。
灰色の敵空母の横っ腹が、眼前いっぱいに広がった。
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キミガタメ 歌:Suara
作詞:須谷尚子/作曲:下川直哉/編曲:衣笠道雄
君の瞳に映る私は何色ですか
赤深き望むなら渡そう陽の光を
悲しみが溢れ瞼閉じました 零れた雫は心に沁みゆく
行き渡る波は弱く交えます 届けしゆりかご 眠りを誘う
夢に懐かしい面影を探す
手を伸ばし強く抱きしめたくなる ha...
君の瞳に映る私は何色ですか
藍深き望むなら渡そう高き空を
喜びが溢れ廻り合いました 零れ落つる笑みは別れを隠す
人はいつしか朽ち果てるけれど
唄となり語り継がれていくでしょう ha...
君の瞳に映る私は何色ですか
緑深き望むなら渡そうこの大地を
脆く儚げなモノよ…
強く美しきモノよ…
在るがまま…ha...
君の瞳に映る私は何色ですか
安らぎ覚えたならそこに私はいる
君の瞳に映る私は何色ですか
裏深き望むなら渡そうこの想いを
渡そうこのすべてを…