胸の奥底には、さまざまな思いを抱えていたのだろうけれど、知覧にくる特攻兵士たちは、みな心優しかった。己の死を覚悟したゆえか、澄んだ川面を吹き渡る風のように、清涼な空気を運んできた。
「先に無線室に行ってもよか?」洗濯物を干す手を止め、中村佐智は横を向いた。
杉浦中尉が飛び立ってから2時間あまりが過ぎた。順調に飛んでいれば、もう到着してもいい頃だった。佐智はずっと時間ばかりを気にしていた。
「もう、そげんな時間になったとね」肩の辺りで頬を拭った鳥浜礼子に、佐智はあごを引くように頷いた。
出撃した後、担当した特攻兵たちの消息を訪ねるのはいつものことだった。
「あん人は、さっちゃんをわっぜぇ(すごく)可愛がっとった。さっちゃんな鈍かから、気がつかんかったかもしれんけど」頬に笑いを浮かべた。
「さっちゃんに、あん人から形見の頼まれもんあっとよ。僕が死んだら渡してくれっちゅうて。
みんながあいをください、こいが欲しかですっちゅうて言うとるときに、さっちゃんな、何も言い出せんかったとやろ? こん2つは先約があるからっちゅうて、杉浦さんな誰にも渡さんかったとよ」
「ほんのこっ(ほんとう)に?」
いただけるのなら何かひとつでもと思ったが、それは喉元から先へは、形となって表現されることはなかった。
何も言わなくとも、これあげるよと差し出してくれる兵士たちも多かったから、それを期待する気持ちもあったのだが、あの人は何も言わなかった。
「さ、あたしがそいをとってくる間に、はよ行き。中尉殿はきっと、成功されるじゃろ」
☀☀☀
昭和20年3月27日早朝、佐智たち18人の女学生は、夜も明けきらぬうちに電話で学校に集められ、事情も知らされず知覧飛行場に向かった。佐智は知覧高等女学校の三年生に進級する寸前の春、15歳だった。
その日は正門からではなく、飛行場を迂回するように、松や檜、竹林の中を進み、飛行場の奥に着いた。そこに並んでいたのが、敵機から姿を隠すようにひっそりと建っている半地下式の三角兵舎だった。それはまるで、崩れて屋根だけが残った粗末な家のようにも見えた。その屋根には偽装の杉の幼木が被せられていた。
そこで将校の訓辞があった。
「知覧飛行場は特攻基地となった。今日からみなさんには、特攻兵士たちの身のまわりのお世話をしてもらいます」
特攻のことは新聞で読んで知っていたが、この知覧飛行場が特攻基地になるなどとは、誰しも考えてもみなかった。息を呑み、お互いに顔を見合わせた。それぞれが驚きの表情を浮かべていた。
半地下に屋根を付けただけの、けっして広くはない三角兵舎に、特攻するまでの数日間を16人が暮らした。そのひとつの兵舎を、それぞれ3,4人が担当して、掃除、洗濯、ご飯運びなどの世話をした。
特攻兵たちの寝具は、わら布団に毛布だけの粗末なものだった。これがお国のために命を捧げる人たちの最後の暮らしとは、と、申し訳なささえ感じた。
軍人でも軍属でもなかったが、佐智たちは、自らを「なでしこ部隊」と名づけた。
到着してくる特攻兵士たちは皆若かった。そんな中、杉浦中尉は物事をよく知っている、成熟した人だった。
途中、熱で寝込んだせいもあり、あの人とは10日ほど接した。洗濯や掃除や身の回りの世話が終わった午後には、いろんな話をした。質問と言ってもいいのかもしれない。
「奥様はおられるのですか? 父母様はご健在ですか?」
「いややもめだよ。父も母も健在だ」白い歯を見せて笑った。
「ないごて(なんで)ご結婚されんかったとですか」
「悲しむ人を増やしたくないからさ」
目尻にしわを寄せたその目は、冗談を言っているようには思えなかった。
「ご実家はどこですか」
「東京だよ。実家は幸い無事だったが、先月空襲を受けた」
3月10日未明、東京の3分の1を焼き尽くし、10万人以上の死者を出した東京大空襲が起こった。
☀★☀
「あたしは体んこまんか(小さい)せいもあって、重か物も持てんとです。洗濯しとっても腕ん力が続かんとです。だから足で踏んどったです。そしたら兵隊さんの服を足で踏んだらいかんっちゅうてガラレ……あ、分からんですね。怒られっしまいもした」
「だから?」
「みんなの足を引っ張っとる気がして」
「人にはそれぞれ、持ち分持ち味というものがある。佐智さん、君の笑顔は辺り一面を染める菜の花のようだよ。僕は野に咲く菜の花がこの世で一番好きだ。佐智さんだって好きな物があるだろう?」
「はい、本を読むのは好きです。童話も小説も詩集も」
「そうか、好きになるというのは、それだけで才能の萌芽(ほうが)だ。僕はちっちゃい頃から飛行機が大好きだった。だから飛行機乗りになった」手折った草をクルクルと指で回しながら宙に曲線を描いた。
「才能ですか?」
「そう、心の琴線(きんせん)に触れない物を、人は好きになったりはしない。持って生まれた何かが共鳴するんだよ。裏を返せば人を形づくる根本にかかわることでは、異質の人間同士は心底からは共鳴しえない。
だから、親が結婚相手を連れてきたらよく話をしてみることだ。駄目だと思ったら、構うことはないから断ってしまえ。わたしには分不相応でございます、とね」
☀★☀
「杉浦中尉さんは、死ぬのが怖くなかですか」
「中尉なんていらないよ。杉浦でいい。官位も何もかも脱ぎ捨てれば、世の中はもっと棲みやすくなる。そして質問の答えは、死ぬのが怖くない人間なんていない」
「やっぱり、怖かですよね」
「ああ、怖いさ。戦闘に出ればいつ死んでもおかしくはない。空中戦で死ぬのは自分の力不足だ。しかし特攻は、力量にかかわらず、必ず死ぬ」
ふっと息を吐き、空を見上げるその横顔は、まるで答えを求める哲学者のようだった。
「人間死んだらおしまいですよね。目の前が真っ暗闇になって、お墓に埋めらるっとですよね。そいも、ひとりぼっちで。夜んお墓は怖かです。死んだら、あげなところに埋めらるっとですよね」
「佐智さん、君に答えが与えられることを願うよ。その前に、ひとつ教えておこう。この戦争は負けるよ」
「ないごてですか?! 兵隊さんが、そいも杉浦さんが、何でそげんなことを!」
「僕は知ってるからだよ」
「負くることを知っとるって言うとですか?」
「知ってるよ。だって僕は、隼の中で長い長い夢を見たんだ。この戦争が負けるということは軍本部だって分かっている。ただ、講話を有利にするために最後の抵抗をしているのさ」そう言って苦い笑いを浮かべた。
それはとても不思議で、理解できない言葉だった。
☀★☀
「特攻兵たちが死守しようとした沖縄は、無残な戦場になる。いや、彼らが守ろうとしたのは沖縄ではなく、ましてや日本でもなく、もっともっと小さいものだったのかもしれない。でも、結果として残るであろうものは、もっともっと大きいものだ。日本と日本民族の未来だ。
誰もが喜び勇んで特攻に来たわけでもないだろう。嫌々ながらの人もいるはずだ。断れない空気に押されてね」
「みんなが志願じゃなかったとですか」
「特攻の初期はそうだったろう。けれどここまで来ると、それでは間に合わない。学徒は特にそうだろう。時代は、戦争は、彼らの希望も夢も意思さえも、戦車のキャタビラのように踏み潰していく」
「あん人たちは、そがんして来たとですか……それなのに、笑うて出撃して。それなのに、日本は負けて、滅びるとですか」
「いや、滅びはしない。日露戦争を知っているね」
「はい。ニッポン勝った、ニッポン勝った、ロシア負けたーちゅうて歌うたそうです」
「あの日露戦争でロシアに勝ち、有色人種を救った。あれがなければ、有色人種は世界の奴隷であり続けただろう」
「世界の奴隷?……」
「そうだ。世界の陸地のほとんどは白人が支配している。有色人種は白人の植民地支配を受けていたわけだ。彼らは有色人種など豚や馬と同じで、我々白人に飼育されているのが当然などと公言してはばからなかった。
そこに、あろうことか数少ない有色人種の独立国家日本が、強大なロシア帝国に戦いを挑んだんだ。
最終的にはアメリカの仲介を受けた形ではあったけれど、勝った。これが有色人種に勇気を与え、全世界の植民地による独立運動に繋がっていった」
「そがんことじゃったとですか。ないごて日露戦争は起こったとですか」
「当時、ヨーロッパをはじめとする列強が、世界を植民地支配するのは当たり前のことだった。朝鮮半島を支配していた韓王国も危険にさらされていた。軍事力も経済力も遅れていた韓王国が保たれていたのは、清大国(中国)の属国だったからだ。
その清大国も、白人勢力に多くの領土を浸食され、半植民地と言ってもいい状態になっていった。
日本に最も近い朝鮮半島をフランスやロシアやドイツ、いずれにせよ白人の植民地にされてしまったら、日本の独立が危険な状態に陥り、やがて植民地化される恐れがある。
特にロシアは不凍港を求めて南下政策をとっていた。それが実現したら喉元に匕首(あいくち)を突きつけられるに等しい。
何で日本がそこまで強くなったのかといえば、運がよかったからだ。日本の植民地化を狙っていた列強が睨み合いをしている間に、富国強兵を行ったからだよ」
☀★☀
「佐智さん、この戦争が、大国が小国を武力と金銭で支配する、領土拡張と資源獲得の最後の戦いになるはずだ」
「やっぱり、負くっとですね……」
「残念ながらね。でも、この特攻は誇りにこそ思え、非難されるべき事ではない」
「誰が非難をすっとですか」
「自らがだよ」
「自ら?」
「切腹を命じられたら自ら腹を切る、それが日本の武士だった。自分が自分に罰を下すなんて国家は、世界広しといえども日本しか存在しない。だからいつか必ず、特攻に関しても腹を切る。小さな非難を大きく受け止め過ぎてね。
ただ忘れないで欲しいのは、特攻は無謀な行為だけれど、われわれ日本民族だからこそできうる行動だということだ。死中に活を求める、という言葉がある。身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ、という言葉もある。
しかし、滅私奉公の心は、危険を生むことがある。今まさにそうだ。もしも時間が残されているなら、この話しもしよう。
日本には天皇があり神道があり武士道がある。揺るぎないその伝統のうえに異教の仏の教えを受け入れ、キリストさえ受け入れたしなやかな民族だ。しなやかさは強さだ。だからこそ、この戦いに負けたぐらいで誇りを失ってはならない」
「我々は亜細亜の雄、日本人として誇りを持って飛び立つ、それだけは覚えておいて欲しい。大和民族を意のままに支配することなど何人(なんびと)たりとも出来ない。
勝てないと分かっている戦いに、亜細亜でただ一国立ち上がったのが日本だ。その意地を見せるのが僕たちの役割さ、民族の誇りと己の命をかけてね」
「ただし、美化してはいけない。佐智さんは、もう理解したね」
「佐智でよかです」
「あ、そうか。じゃあ佐智。ここに来ている特攻隊員の多くが学徒だ。学業を途中で放棄されられて招集された学生たちだ。僕たちとは根本的に違う。
将来の日本のために彼らを殺してはならない。死ぬのは僕たち軍人だけで充分だ。しかし軍部はそれをいとわない。これは作戦としては恥ずべき事だ」
「はい、確かに皆さん若かとです。わたしたちみんな、実のお兄さんのごたるって」
「うん。ここに集まった人たちは、ひとりの人間ではなく、もはや一個の爆弾に過ぎないのだ」
「爆弾……」
「もっと正確に言えば、爆弾を抱えた人間だ。それはそれとして、僕が見てきた未来の話をしよう」
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開聞岳