得意なことはまかせろ | 意識が世界を創っている

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心と身体のつながりを日々研究中
面白いことをみつけたら不定期でつぶやいています

わたしは家のない生活をしていた。当時、あらゆるひとから「あなたの生き方には憧れるけれど、自分にはできない」という声を聞いた。誤解を恐れずに言うと、真似をする必要はまったくないのだと思う。逆に言えば、人間、おれみたいになれと言った瞬間からダサくなるのだと思う。自分は自分を生きること。自分を生きることが、結果として(根本では繋がっているから)誰かのためにもなるのだということ。わたしは、たまたま『家のない生活』ができる状態にあった。だから、あなたの代わりに自分がその生活を生きる。その生活を生きることで感じたことを共有する。だから、あなたはあなたを生きること。あなたを生きる中で感じたことをおれにも共有してもらえたらうれしいと、そういうう風に感じていた。

 

生き方には正解はないのだから、生き方には間違いもない。それが世間一般的なものとはかけ離れていたとしても、自分の命を誠実に生きる限り、必ず何かしらの果実を得る。その果実こそが『自分は自分である』ことの最高の収穫物であり、ひとと同じであることに神経を擦り減らすことよりも、人並みであることを捨てて「おれはおれを生きる」と決めたひとから、結果的に人類全体における最高の共有財産を築いていく(のだと思う)。わたしたちは別々の命を生きているのではなく、多分、ひとつの大きな命を生きている。自分が自分を生き切ることが、結果的に「誰かの人生にも貢献することができる」ものだとしたら、それほど素晴らしいことはないと思う(そして、事実世界はそのようにできているのだと思う)。

〜坂爪圭吾氏『いばや通信 世界の秘密を知ってしまった』より

小学校に上がってから(あるいはそれより以前から)

私たちは多くの場面で一つの正解をよしとする教育を受けてきました

 

なかなか「みんな違ってみんな良い」とは言ってもらえず

自分の中に正解があったとしてもそれは採用されることはなかった

むしろそれを押さえ込まなきゃ社会に出て大変だよと大人たちに言われてきました

 

特に私は平均からかなりずれた子供だったのでその差も歴然としていて

周りの大人たちは私を見て顔をしかめるばかりでした

 

だから私の中には「自分はダメな奴だ」「嫌な奴だ」という感覚がドーンと根を張っていました

それが当たり前だし仕方ないことだと受け入れていました

(生まれた時からそうだったからある程度成長するまでは特段悲しくもなかった)

 

ですがそれと同時にずっと心の中に漠然としたある思いも感じていました

だけど自分の中で全く言語化もできていなくてこの感じは何かしら?と思っていた

 

それをとても素敵な文章にしていらっしゃる方を知りました

それが上記『いばや通信』から抜粋させていただいた一文です

(坂爪さん、快く掲載を承諾くださりありがとう^^)

私の中にずっとあった感覚、これなんです

 

たとえば

子育てする中で「好き嫌いをなくそう」なんてよく聞くけど

その子に必要ないものだからその子はそれを嫌いなの

だから無理に食べさせないでって思います

それを食べなくてもその子は大丈夫だし

 

「私トマトが大っ嫌い、どんなに頑張っても食べられない」

「大丈夫あなたが食べられないなら、その分トマト大好きな私が食べとくから」

むしろこんなことを言ってもらえたらその子はもっと救われる

 

世界が一つの命を生きていて

私たちはその中でそれぞれのパートを受け持って人生を経験している

 

もし仮にあなたの右手の親指が

「俺は何で親指なんだ!せめてスラッと背の高い人差し指のようであったら・・・」と

真剣に悩んでいたらどうです?

「いやいや、あなたは親指だから素晴らしいんですよ。むしろ親指でいてくれることが

何より大切だし」って言いたくなりません?

 

私ができないことはそれを得意な誰かがやってくれる

私が得意なことはきっと誰かはできないことだから私はそれを一生懸命にやる

 

そんなパート、パートが集まって大きな命を生きている

それを実感すると逆に「他人事」ってありえなくなるけどね

それも面白いか