江戸時代の禅僧で至道無難という人のエピソードがあります。
『ある日、無難は商家を訪ねて、主人と話をしていた。ちょうどそこに別の商家からの使いが来て、主人に紙に包んだ金を渡して帰って行った。それから間もなく、無難もそこを辞去した。主人が金のことを思い出したのは、しばらくしてからであった。ところが、どこを捜しても金が見つからぬ。そこで主人は無難のところに行き、「もしや、なにかのおまちがいで、お持ち帰りになられたのでは……」と尋ねた。無難はなにも言わずに、それだけの金を出して主人に渡した。数日ののち、思いがけぬところから金が出てきた。びっくりしたのは主人である。すぐさま無難のところに行き、鄭重に詫びた。もちろん、無難からの金は返した。「ああ、そうですか。出てきましたか……」無難はそう言って金を受け取った。別段、怒る様子もなかった。』
ネットで見つけたこの文章は先日ブログで紹介したお坊さんの話にもよく似ている
でも私にとって『濡れ衣で赤ん坊を育てることになった』のと
『濡れ衣でお金を支払う羽目になった』ではその受け入れ度合いが全然違って
自分でもびっくりです
もちろんいろいろ事情を細かく想定するとお金の方がまだハードルは低いのかもしれない
ですけど・・・もちろん金額によりますよね!
それにしても
「あーもう、何が起こっても(そうであったか)と端然としていたい」なんてひとりごちながら
今日も何かを獲得しよう、何者かになろうとして相変わらずあくせくしている自分に気づく
のでした