無条件の受け入れ | 意識が世界を創っている

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心と身体のつながりを日々研究中
面白いことをみつけたら不定期でつぶやいています

先日から「受け入れ」というテーマがいろんな形で押し寄せています

上の記事の通り、先方に承諾の旨を伝えました

 

その後、先方から謝罪のメールをいただきました

 

私は既に実験モードに入っていたので

頂いた謝罪文のみのメールがちょっとわからなくなっていて

「えと・・なんだっけ?」

(注:あくまで一瞬ですよ!すぐ記憶は蘇りました)

 

「え〜💧どうすりゃいいの? あ!じゃあ受け入れの実験をしてみよう」

と思い立ち始まった受け入れのプロセス

 

多分通常の感覚だと『どういう経緯でそうなったか? 』や

『今後どうしていくのか?』などのやりとりはあるのかもしれませんが

それらをすっ飛ばして「承知した」旨を返信したので先方には意外だったらしく

「本当に失礼なことをしてしまい申し訳ない」との返信でした

 

ただし現状は何にも変わっておりません^^

 

今後どのような展開になるのか、私にとってさらに不利になったままなのか? 

それとも「あの時先方の言うことに異議を唱えず飲み込んでおいて良かったね〜」

となるのかは今のところ全くわかりません

 

それでも

「あぁ、そうであったか」という一言が例のお坊さんの話を思い出して

肩の力が抜けて軽い感じもあるし

何より量子場調整術で

今回の出来事をまるっと自分の中に取り入れて一体化してみたのもある

(技術としてね、あるんですよ♪)

 

だから実は

「あぁ、あのことですか?もう別にいいですよ」となってしまっているのですが

私自身がよくてもその周りの変化はどうなっていくのか

私自身がその事象に対しては、もう怒りなどのエネルギーを与えていない今の状態が

どう展開していくのか!

『実験』と言ったからにはそこはきちんと覚えておいて

なにがしかの事象となったら記録しておいてまたブログに後日談として

upしようと思います

 

ただし

人生に明確な区切りがあるわけではないから

「この原因がこれこれこういう風に展開した」などという

きちんとした起承転結の形をとることにはならないでしょう

 

ただ今回の出来事で少し感じたことは、"確実に何らかの変容は起こっている"

という感覚

 

というか私達は変容せずに存在はしていられません

 

ずっと変わらずに存在しているような山とか岩とか地球そのものだって

刻一刻と変容し続けています

それが自然のあるべき姿ならば

私たちが人生において求められていることは常に変化することではないかと思います

 

その時心の中に「抵抗」や「反発」などがあると

それが変容へと進むエネルギーを阻止してしまうのかもしれません

 

私も(自分のこんなところを変えたい、そうすればもう少し人生よくなるかも!)

なんてことをよく考えます

 

でもその時「私は変わりたい!」と言っていても

何度も降りかかってくる同じテーマにいつまでも抵抗をしてしまったり

(そんなの到底受け入れられない)なんて反発してしまうと

その反発のエネルギーが変容へと進むエネルギーと拮抗して打ち消し合ってしまうような

そんな感じ

 

以下の文章は光奈広大さんという

私が好きなブロガーさんの「受け入れる」ことに関する文章です

一部引用させていただきます

 

ここで大事なポイントなのが、本人の自覚はそれと全く逆に、「自分はずっと耐えながら、相手のことを一方的に受け入れてあげている。もう限界まで努力して、自分の許容範囲を『広げて』いる。なのに相手は無神経にも、自分の限界を超えるほどまで、気に触れることを言ってくる!」
 ――なんてふうに自分で考え、疑う余地なくそう信じていることが多い。

 でも実際には、広げているのではなく、狭めている。
 いや、そもそも受け入れに「範囲」なんていうものは存在しないのに、自分で勝手に限度を作ってしまっている、といえる。
 昔から「堪忍袋」なんて呼び方もあるけど、その本来の容量は宇宙大であり、イエスの言う「7度を70倍するまで」なのだが、ただ袋の口に付いたエゴの「緒」だけがブチ切れる、というだけだ。

 

「自分は正しい立場にいて、正しいことを考えて、正しいことを言っている。なのに、どうしてこんな相手に批判されなきゃならないのか。自分が引き下がったり、折れたり、自分から許したりする筋合いなど全くない!」――
 という具合に、あまりの理不尽さに怒りがわき上がってくるのを感じたら、それが「チャンスの時」である。

(引用おわり)

 

この後、ブログではそのチャンスを使って相手のことを受け入れてみることを提案されていた

 

例えば

"あなたは人としてダメだ!" 「だよねー」

"あなたはいつも間違っている!" 「かもねー」

というように一旦相手の言葉を受け入れてみる

 

ただし!ここで受け入れるのは相手の主張そのものではないということ!

(そうか、私はダメなやつなのか)ではなく

相手はそのように主張している → この今の自分の世界に現れている「厳然たる事実」

その事実だけを「だよねー」と受け入れる

 

そうすると不思議なことになんとも軽やかな開放感がやってきて、やがて人生を

変容するパワーが始動する

そして周りの世界の在り方までもが変わっていく 

 

こんな風にブログでは紹介されていて

なるほどなーと思わされました

 

今回、私が「不利な提案」を受け入れることをやってみたとき

最初に来たのも確かに「軽さ」でした

 

それは例のお坊さんの「そうであったか」にも通じています

「子供の父親はお前だろう」と決めつけられて子供の世話を押し付けられても

「そうであったか」と言った彼は

父親であることを受け入れたというよりは

娘の親が自分を父親だと決めつけたことや子供の世話をするように迫ったこと

その出来事自体を単純に「そうであったか」と受け入れた

 

確かに「受け入れ」をしたからといってすぐに自分に明らかな変容が訪れてくる

というものではないかもしれませんが

生きているうちには様々に起こってくる出来事に対して

受け入れは変容に向かい、抵抗は停滞や立ち止まることにつながるのかもしれません