ほんの指先のことでさえ | 意識が世界を創っている

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心と身体のつながりを日々研究中
面白いことをみつけたら不定期でつぶやいています

数年前に知った物語で印象に残っているものがあります

 

細部までは覚えていないのですが

とにかくとことん物事を受け入れ続けた人の話です

 

 ある禅寺に高名なお坊さんがいらっしゃった

その禅寺の近所に住む娘が結婚もしないうちに妊娠してしまった

 

親は怒って相手の名を問い正した

事情があったのか相手の男の名を明かせなかった娘はなんとその禅寺のお坊さんの名を口にした

 

月が満ち赤ん坊が生まれると親はお坊さんのところへその子を連れて行き

「お前の子だからお前が育てろ」と押し付けた

 

お坊さんは何の弁解もせずにただ一言

「そうであったか」と言ってその子を引き取る

 

やがて隠し子の噂が広まりお坊さんは人々の信用をなくしていった

 

そんな様子を知った娘が良心の呵責に耐え切れず真実を打ち明け

驚いた親はすぐさま禅寺へ行き、濡れ衣を着せたお坊さんに平謝りに謝って子供を引き取った

 その時もお坊さんはやはり一言

「そうであったか、父親がわかってよかった」とだけ言い、一切の非難を口にせず

赤ん坊を返した・・・  ざっとこんなストーリーだったと思います

 

 

自分の置かれた状況を到底受け入れることができない時や

相手が言った一言に傷ついて忘れられない などということは誰にでもあることでしょう

 

そんな時、自分の正当性を主張しようとすればするほど思考は暴走し

例えば先に対処すべき目の前の問題も後回しになるほどいろいろ考えてしまいます

 

私はこのお坊さんのように達観はしていないのでそりゃもう、ジタバタします

 

「どうしたらよりよく立ち回れるか」

「自分が不利にならないようにこう言ってみようか」

「これだけ証拠があれば相手が間違っていることを証明できる」

 

そうやって自分の正しさを証明するのも

もしかしたら時には大切かもしれないけれど

 

『どうして自分にはいつもこういうことが起きるのか』とうんざりするほど

なんども繰り返し起こってくるような事態は

自分にとって何らかの大切な意味を持っている「人生で本当に向き合うべきテーマ」

なのかもしれません

 

それと

自分の正しさを主張したいと思ってしまう時

当然その事態を「問題だ」と捉えている自分がいる

 

つまり「問題=あってはならないこと」だと考えた時、そこに抵抗が生まれる

抵抗は事象に対してエネルギーを持つのではないかと思います

 

先ほどの物語のお坊さんは

それを問題ととらえず「子供の面倒を見ろ」と言われたから引き取った

 

もしも「それは違う!」などと自身の身の潔白を証明しようとした途端、抵抗が生まれる

 

抵抗はエネルギーを持つから、たとえ潔白が証明されたとしてもなんらかの影響を

周りに波及させる

 

それはそれでいいのかもしれない

 

だけど私は一度は「そうであったか」と何も言わず何も聞かずに

受け入れてみることをしていきたい

 

頭の中で「そうであったか」と言ってみると、拒絶・抵抗しようとするエネルギーが

なぜか自然と薄らいでいく感じがして
かなり理不尽なことでも、自分自身に対して無理な理由をでっち上げることもなく

淡々とストレートに受け入れらるように思います

 

それは病気への対処も少し似ていると私は思っていて

 

長くお風呂などに浸かっていると

ふやけてシワシワになってくる指先

なぜそのようになるのかその理由さえまだ解明できていない

 

指先のそんな些細な状態も明らかにできていない私たちが

身体における "ある状態" を取り上げて「病気」という時

「病気」と戦う

「病気」を克服する

などという言葉で「病気」という言葉に一つの状態を与え

自分の存在とは何か別のもの

身体から追い出すべきもの

消し去らなければならないものと考えがちだけれど

 

それが今の自分の一つの状態と捉えてそれを一旦受け入れて

なぜ身体はその状態を作り上げたのかを考え始めた時

 

自分に示唆を与えるために身体がその状態を作り上げて知らせてくれる信号なのかも

と考えると

また何か違う展開が始まるかもしれないのではないかと思うのです

 

自分の身体からの信号を

「そうであったか」と一度受け入れてみる

 

受け入れると必ずエネルギーは変化します

そこから自分の思考や体感がどう変化していくのかを見ていくのも

面白いですよ