『アダムの原罪』
L’intérêt d‘Adam/Adam‘s Sake
2025年/ベルギー、フランス/79分
@UPLINK京都/平日12:55〜/観客7人
14歳から映画館に通い始め、ちょっと背伸びして観る映画を監督で選ぶ時期を経て、30代になると今度は女優で選ぶようになった。そして40代後半から今に至るまでは、チラシから受けるインスピレーションで作品を選ぶことが多い。
だが、アナマリア・ヴァルトロメイだけは別だ。
彼女が出演していると知るだけで、僕は簡単に、女優で映画を選ぶ時期へ引き戻される。
映画は冒頭からエンドロールまで、一切の音楽を立ち入らせない。
説明もしない。整理もしない。感情の置き場所も教えない。
ただ、制度と良心の狭間で揺れ続ける看護師長ルシーの背中を、至近距離のカメラで追い続ける。
ローラ・ワンデル監督は、「『Playground/校庭』では外の世界の暴力を描いたが、本作では内なる暴力、自分自身との闘いを描いた」と語っている。
その言葉どおり、この映画にあるのは悪人との対決ではない。
人を救いたい気持ち。
子どもを守りたい気持ち。
ルールを守らなければならない責任。
それらが同時に存在するとき、人は何を選ぶのか。
その苦しさから目を逸らさない映画だ。
タイトルの「アダム」は特定の誰かではなく、「私たちすべて」を指しているという。
聖書の原罪は、禁断の果実を食べた話として知られている。しかし本質は「自ら善悪を決めようとしたこと」だと解釈されることが多い。
この映画の登場人物たちもまた、制度では救えない現実を前に、自ら判断し、自ら責任を負おうとする。
その行為は正義なのか。
越権なのか。救済なのか。傲慢なのか。
映画は答えない。
そして僕は、そういう映画が好きだ。
シングルマザーを演じたアナマリア・ヴァルトロメイも素晴らしい。
怒り、愛情、焦燥、好戦性、絶望、孤立、謝罪、頑なさ。
親として未熟で、傷だらけで、それでも必死に我が子を愛そうとする。
彼女の軽率さを批判するのは簡単だ。
だが、映画は彼女を断罪するために存在していない。
だからこそ苦しいし、目が離せない。
ワンデル監督は「観客への最大のギフトは、信頼だ」と語っている。
この映画はまさにその実践だった。
説明しない。
美談にしない。
安易な救済も与えない。
それでも沈黙の中に、ごく小さな希望だけを残して去っていく。
79分という短さなのに、観終わったあと何時間も心に居座り続ける。
僕にとって、こういう映画体験は何より贅沢だ。
観客を信頼する映画を、僕は信頼したい。
