正解を描かないという態度


『シンプル・アクシデント/偶然 』

Yek tasadef sadeh(単なる偶然)

IT WAS JUST AN ACCIDENT

2025/イラン,フランス,ルクセンブルク/103分

@UPLINK京都/平日17:45〜/観客12人



多くのハリウッド映画や日本のエンタメ系映画は、観客に正解を渡してくれる。

誰が悪で、何が正義で、どこで感情を解放すればいいのか。

観終わったあとに迷いを残さないことは、娯楽としてとても優れた設計だと思う。


でも本作は、その方向とはかなり距離を取っている。

観終わったあとに残るのは、納得や爽快感というより、むしろ居心地の悪さだ。


ただ、その居心地の悪さは、物語が未整理だから生まれるものではない気がする。

この映画は、あえて正解を描かないようにしているように見えた。


不当に投獄され、人生を奪われた人間の怒りは当然だと思う。

でも、その怒りを確証のないまま特定の個人へ向け、裁きを下していいのかは別問題だ。


もし「この男が看守だった」と明確に示してしまえば、観客は安心して復讐を肯定できる。

でも本作は、その安心を与えない。

答えを出せなかったというより、簡単に答えを出すべきではない、という態度を選んでいるようにも感じた。


だから観客も、安全な場所から眺めてはいられない。

看守の顔を見たことがないことも、相手が「人違いだ」と否定し続けることも、観客は主人公と同じ条件で共有する。


復讐に同意したい気持ちと、確信のなさへの怖さ。

そのどちらも消しきれないまま、ずっと宙づりにされる。

鑑賞後に残る居心地の悪さは、たぶんそこから来ている。


そして映画は、その居心地の悪さを最後まで解消しない。

感情をすっきり解放させるわけでも、判断を代行してくれるわけでもない。

問いだけを残して終わる。


気軽に消費できるタイプの作品ではないけれど、この不快さから逃げなかったところに、この映画の誠実さを感じた。