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●石川雑記帳●

医学博士号を取得。製薬企業に研究職として勤務。日々の雑感を書き綴ります。

「学校は小さな社会」などとは、よく言ったものです。
学校にせよ、会社にせよ、家族にせよ、誰かと関わることによって、自然と社会的な何かがそこには発生します。
結局、大人になっても人間の本質は、ほとんど変わらりません。
ニュースでよく話題になっているように、大人になってもイジメはあります。
イケてる人たちも入れば、冴えない人たちもいます。
それぞれ、大事にするものも違います。
それは、子供のときも、大人になっても同じです。
そんな形で、知らず知らずのうちに、僕らは目に見えぬカーストを形成していきます。
ただ、大人と子供(学生)で明らかに違うのは、子供の場合、カーストが狭い世界で形成されているため、それぞれのカーストが接触する確率が高いということです。


桐島、部活やめるってよ
小説をもとにした映画です。
僕は、小説の方は読んでいませんが、おそらく小説も映画同様に良い作品なのでしょう。


この映画を一言で表すなら、「カーストのリバランス」とでも言ったら良いのでしょうか。
ここでのカーストは、ごく簡単に分けることができます。
それは、「帰宅部男子」「帰宅部女子」「運動部男子」「運動部女子」「文化部男子」「文化部女子」です。
力関係としては、以下の通りです。

「帰宅部男子」>「帰宅部女子」>「運動部男子」≧「運動部女子」≧「文化部女子」>「文化部男子」

通常なら、彼らは必要以上に接触することはありません。
しかし、今回は「桐島」という「運動部男子」でありながら、学校のスーパースター/カーストのトップに君臨する男子が、部活をやめ、友人たちとも音信不通になることから、ストーリーが展開していきます。
その結果、各カーストのバランスが崩れ、接触が起こり、リバランスが起こります。
そして、このリバランスを通じて、部活をやる意味、ひいては生きる意味まで考えさせてくれます。


この映画は、本当に僕の心に学生時代の楽しい思い出と苦々しい記憶を呼び起こしてくれました。
僕は、学校の中では「中の中」というポジションでした。
そんな僕でも、映画の中の「帰宅部女子」に位置する女の子と楽しい会話を楽しんだりしました。
でも、好きになったり、告白したりするまでには至りませんでした。
それは、自分が作ってしまった心理的な壁や映画の中でいう「カースト」が気になってしまったからです。
そして、その女の子が、映画の中で言う「帰宅部男子」のような男の子と付き合っているのを知ると、苦々しい気持ちと妙な納得感を抱いたのを覚えています。


ところで、なぜ中学生/高校生の大半は、部活をやるのでしょうか。
もちろん、半ば強制的にやらされているだけの人もいるでしょう。
しかし、そうでない人も沢山います。
将来、その部活関連で金を稼ぐ訳でもないのに、なぜ毎日のように汗水たらして部活に力を注ぐのでしょうか。


映画の終盤で、主人公の神木竜之介が言います。
「(将来、映画監督になるのは)無理です。」
でも、彼は部活の中で自分自身の脚本で映画を撮りたがります。
彼は、高校時代をそれに賭けています。
一方、それを聞いたカーストのトップにいるはずの「帰宅部男子」は、心を打たれます。
いつも冷静で、可愛い彼女のいる「帰宅部男子」ですが、自分が賭けるものがないことを改めて突きつけられ、カーストの最下段に位置する「文化部男子」と自らの違いに愕然とします。
こんなことが起きたからといって、次の日から目に見えぬカーストが崩壊することはないでしょう。
でも、地味で女子にもモテないが、自分の軸がある「文化部男子」を目の当たりにすることで、(学校内では)何でも手に入る自分(帰宅部男子)は、一体何に価値を見いだすべきなのかということを深く考えるはずです。


映画の中では、「桐島」という人物は一度も姿を現しません。
彼のスペックだけが、ストーリーの中で語られるのです。
スペックは、たしかに素晴らしいものがあります。
ただ、きっと彼も気がついてしまったんだと思います。
「自分(桐島)は、大抵のことは人並み以上に器用にこなすことができる。でも、特に賭けられるものがない。」
ということに。
もちろん、これは僕の勝手な想像です。
しかし、このストーリーの始まりは、学校のスーパースター/カーストのトップに君臨するものが陥った価値観のパラダイムシフトではないのかと。
そして、それがあらゆる人にパラダイムシフトが伝染していく様を描いているストーリーではないかと思うのです。



今年の夏に実家の山梨に帰ったときに中村キースへリング美術館というところに行ってきた。
昨日は、思いつくままにアンディウォーホルについて書いたが、今日はキースへリングについて書こうと思う。


キースへリングの作品は、性的なものを想起させる作品が多い。
彼は性に奔放だったようだし、最終的には31歳の若さでAIDS で亡くなっている。
そんなことが、僕の頭の中にこびりついているから、少し色眼鏡で見ている可能性もある。
ただ、彼の作品が性的なものを想起させるからと言って、決していやらしいとは思わない。
むしろ、ピュアだと思う。


そもそも、アートにおいて性的なものは、最も大きなテーマの1つだ。
著名な画家たちの多くは、女性の裸や沐浴の様子、男性器が露な石像なんかを作製している。
キースの場合は、それを抽象化して、さらに分かりやすく描いたに過ぎないのだと思う。
だって、彼は「コマーシャルアートとファインアートの壁を壊したい」と発言しているのだから。


彼は、性的なものを想起させる作品を作製した一方で、無垢さや永続性を求めている。
シンボリックな作品の1つにラディアントベイビーがある。
彼は、子供は純真無垢であり、大人が忘れてしまったものを知っていると述べている。
そして、彼は子供たちと大きなラディアントベイビーを作製しているし、死ぬ間際まで描いていたのもラディアントベイビーだったらしい。
きっと、彼自身がいろいろ知ってしまったがゆえに、純真無垢に対するあこがれが強かったのだろう。


また、永続性については「Life or Art ?」という質問に「Art」と答えていることからわかる。
ウォーホルが死んでしまったときも「彼の作品しか思い出せない。」なんてことを言ったらしい。
作品として残っていれば、それは永遠の可能性があるのだ。


彼の生き方は、短く太く!という形で、いろいろと矛盾しているように見える。
しかし、矛盾していても彼という人物は成立していて、彼の作品は死後20年以上経っても作品は色褪せていない。
いや、Art が永遠であれば、Life は刹那的でも良いと言う意味では、矛盾していないのかもしれない。
きっと彼は非常に複雑な精神構造の持ち主だっただろう。


ところで、なんで「セックスはピュア」なんていうタイトルにしたんだろう。
……性的なものを想起する作品を描く一方で、ラディアントベイビー。
結局、セックスしてベイビーが生まれる。
純真無垢な存在としてのベイビーが生まれてくるため行為は、やはりピュアなのだろう。
そう、「セックスはピュア」なんじゃなかろうか。
なんとなく作品をみながら、そう感じたんだった。



僕は、ポップアートが好きだ。
好きと言っても、ちょっと雑誌で読んだり、いくつかの作品を観に行ったくらいだ。
そういえば、今年の夏はユニクロがアンディウォーホルの作品とコラボして、Tシャツを出していたから、そのシリーズは全て買った。


ポップアートの良いところは、分かりやすいところだ。
何が分かりやすいのかというと、一見して人の注意を引くところだ。
別に、作品1つ1つが必ずしも高そうにみえる訳ではない。
むしろ、作品1つ1つは安そうに見える。
ウォーホルの代表的な作品の1つは、キャンベルスープなのだから。


僕らが、芸術といって観に行っているものは、実はその時代時代にとっては、ただの風景である。
それは、バルビゾン派あたりから、(たぶん)そうだと思う。
もちろん、風景にみえないものも、実際にそうじゃないものもある。
でも、ウォーホルにとっては、キャンベルスープが彼の風景であり、描きたくなる美しいものだったと聞いたことがある。


また、ウォーホルの創作の1つに、brillo box というものがある。
brillo は、アメリカで使われている食器を洗うスポンジだ。
そのパッケージデザインを空の木箱に施して、展示をしたり写真を撮っていた。
彼は言う、「僕を知りたければ作品の表面だけをみてください。」
パッケージデザインが同じであれば、中身をみない限り、それは本物のbrillo box なのだ。
彼は、見えるものが全てであるということを言っている。
そして、きっと、当時の大量消費社会のアメリカと相まって、彼が版画で多くの同じ作品を大量生産したことと通じるものがあるのだと思う。


僕は、いちおう科学者として実験をおこなっている訳だけど、僕らの仕事も目に見えたこと、そのに出てきたデータが全てだ。
それは、覆しようがない。
もちろん、その現象の裏で何が起こっているのかを考察しなければ、僕らの存在意義はないのだけれど、大事にするべきことは目に見えている現実である。
そこがなければ、実験を繰り返しても、中身にたどり着けない。
いや、中身にたどり着いたような感じがするだけで、そこから深堀しようとすればさらに深堀ができるわけで、もしかしたら中身すら表面かもしれないのだけど。。。
ともかく、最初に目に見える現象が全ての真実であることには変わりがない。
表面に見えている現象というのは、裏で起きている全てのことの総和なのだ。
だから、ウォーホルは「表面だけみてください。」なんてことを言ったのかもしれない。
もう少しウォーホルを勉強するとしよう。
間違ったことを書いてたら、ごめんなさい。