今日は



ハンショウ


を取り上げます。


ハンショウ  字は文珪  東郡発干の出身


孫権が陽羨県の長だったときに、出かけていって、


目通りをして、孫権の配下になりました。


彼は気ままな性格で酒を好み、家は貧しくて、


つねづね、つけで酒を飲み、かけ取りが家までやってくると、


いつも将来金持ちになったら払ってやるといっていました。


そうしたハンショウをみて、孫権は見所があるとして愛し、


兵の募集にあたらせ、百人以上集まると、


そのまま、その兵を与えて部将としました。


のちに彼が、蘇州の中央市場の取締りの役になると、


盗難殺傷事件がなくなりました。


このことで評判が高くなり、豫章郡の西安県の長に昇進しました。


この県は、しばしば劉表の一味の侵入略奪をうけていましたが、


ハンショウがここを治めるようになってからは、県内に攻め込んでくるものはいなくなりました。


合肥の戦いでは、長遼が急襲をかけて来たとき、


呉の部将には備えがなく、陳武は戦闘の中で死に、


宋ケンや徐盛らの軍勢は、われがちに逃げ出しました。


ハンショウは後方にいましたが、急いで駆けつけると、


馬を横にして、逃げようとしている兵士2人を斬りまた。


それを見て他の兵士たちは、みな取って返して戦いました。


孫権はこれを高く評価して、偏将軍に任じて、ハンショウを半州に駐屯させました。


孫権が関羽の討伐に軍を動かすと、ハンショウは朱然とともに、


関羽の退路を断つため、臨ショまで進んで、


夾石に軍を留めました。


ハンショウの部下の馬忠が、関羽と息子の関平、そして都督の趙累らを捕らえました。


孫権はこの働きを喜び、すぐさま宜都県のフとシキを分割して、


固陵郡を作り、そこの太守にハンショウを任じ、


振威将軍とし、リツ陽候に封じました。


甘寧が死去すると、その軍もあわせて指揮しました。


三国志演義においては、このあと関興に殺されていますが、


実際には、殺されてなんかいません。


夷陵の戦いでは、陸遜と協力して劉備の軍を押しとどめ、


ハンショウの部下が、劉備の護軍のフ習らを斬り、


多数の敵兵を殺傷しました。


この功により平北将軍・襄陽太守に任じられました。


その後、魏の夏侯尚を撃退するなどし、


孫権が皇帝を名乗ると、右将軍に任じられました。


ハンショウは性格が粗暴で、彼の出す禁令はよく行われました。


大きな手柄を立てること望み、率いる兵は数千に過ぎませんでしたが、


その軍が向かうところ一万の軍勢のような働きをしました。


ただ彼は贅沢を好んで、晩年は余計にそれがひどくなり、


服飾物に身分不相応のものを使ったり、


役人や兵士で豊かなものがいると、殺害して奪うなど不法を犯しました。


監察の役人が届けをだしても、孫権は彼の手柄を惜しんで、


いつもおおめに見て、罪に問いませんでした。


234年に死去しました。