今日は



セツ綜


を取り上げます。


三ONでは、建業の前にいて、勢力クエストを依頼してくる人ですね。


セツ綜  字は敬文 ハイ郡の竹邑出身


若いときに、交州の地に疎開してきて、


その地にいた劉キのもとで学問を受けました。


士ショウが孫権に従うようになると、


孫権はセツ綜を召し寄せて、五郎中郎将に任じて、


合浦と交シの太守に当てました。


当時、交州は開けたばかりの土地で、


呂岱が軍勢を率いて討伐を行っていました。


セツ綜もそれに同行し、海を渡って南下し、九真まで足を伸ばしました。


南方での役目が終わって都に帰ると、


謁者僕射の任務を代行しました。


ある時、蜀の使者の張奉が、孫権の御前で、


尚書のカン沢の姓名を分解して、


意地の悪い解釈をつけて笑いものにしたのに、


カン沢はやりかえすことができずにいました。


セツ綜は自ら、酒を酌をしてまわり、


酒を酌するついでにいいました。


「蜀とはなんでありましょう。犬がいるとヒトリ(けもの辺に蜀)となり、


 犬がいないと蜀となり、横に身をかがめ、お腹に虫が入っています」


張奉が呉についても分解して、解釈するようにいうと、


即座に


「口がなければ天となり、口があれば呉となります。


万邦に君臨して、天子の都なのであります。」


人々はこれに喜びさんざめき、


張奉は言い返すことができなかったといいます。


セツ綜の行いと敏捷さは、みなこのようであったといいます。


遼東の公孫淵が一度は呉に降りながら、叛いて呉の使者を殺すと、


孫権はひどく腹を立て、みずから公孫淵を打つと言い出しました。


セツ綜は上疏していさめ、ほかの群臣たちも多数諌めたので、


孫権は遼東征伐にいくことができなかった。


孫権はセツ綜に勅をくだして、皇祖にたいする祝詞に、


これまで使った文章は使ってはならないといいつけました。


春の祭典は迫っていて、セツ綜は急いで書き上げましたが、


内容のある、鮮やかで美しい言葉から成り立っていました。


さらにもう二編つくり、三編一組の数を満たすようにいわれると、


さらに二編の祝詞を作りましたが、それは借り物ではなく、


人々は口をそろえてほめそやしました。


240年に選曹尚書の官に移り、242年には太子少フに任じられて、


選曹尚書の職務も兼任しました。


243年春に死去。彼の著として、詩・賦・議論文など、数万言があり、


「私載」と名づける文集に収められました。


はかに「五宋図述」と「二京解」とを完成させ、世間に広く伝えられたといいます。