今日は



黄蓋


を取り上げます。



黄蓋  字は公覆 零陵郡の泉陵の出身。


黄蓋は幼くして父を失い、若いときから不幸が重なり、


つぶさに辛苦をなめました。


しかし志を大きく持って、凡庸の人の列におちることなく、


薪とりのひまには、いつも上表文の書き方を学び、兵法を学びました。


やがて郡の役人になると、考廉に推挙され、三公の府から官につくように招聘されました。


最初は文官としての才能を評価されていたようですが、


この招聘を断っています。


孫堅が義兵を挙げると、孫堅の配下に加わりました。


孫堅が南に山越の不服住民たちを打ち破り、


北に董卓を敗走させると、その間に功績があったとして、


別部司馬に任じられました。


孫堅が亡くなると、黄蓋は孫策の配下に入り、


さらに孫権の配下に入って、みずから甲冑をつけ、白刃を犯して各地を転戦して、


城まちを落としました。


山越たちが恭順しなかったり、群盗が荒らしまわっている県があると、


必ず黄蓋がその土地の長官に任ぜられました。


石城県の役人たちは、綱紀が乱れてどうしようもなかったのですが、


それに対処するため、黄蓋は二人の属官に官署を司らせました。


最初は、黄蓋の威を恐れて、職務に励んでいましたが、


時がたつうちに、黄蓋が文書に目を通さないのをいいことに、


役人たちは、だんだん情実を加えるようになりました。


黄蓋は役人たちの服務規律が乱れていることから、


いささか調査をして、二人の属官が法ないがしろにしている事実をつかみました。


そこで配下の役人全員を集めて、


酒食を饗すると、その席で事実を持ち出して詰問しました。


二人は言い訳ができなくなり、叩頭して謝罪しましたが、


黄蓋は、二人を処刑しました。


このことで、県の役所のすべての人が震え上がりました。


そのほか九つの県の知事を務めましたが、


黄蓋の治めた県はどこも平穏が保たれ、豪族たちを抑え、


弱いものを保護し、山越たちも、なつき寄ってきました。


黄蓋はその風貌に威厳がありましたが、兵士の生活によく気を使ったため、


軍を動かすと、士卒はみな先をあらそって戦いました。


赤壁の戦いにおいては、周ユに火攻めを進言して、


曹操の軍を押しとどめました。


この功により武鋒中郎将に任ぜられました。


その後は地方の反乱の平定などに尽力して、


偏将軍を加官されました。


のちに病気のため、在官のまま亡くなりました。


黄蓋は職務を処理に際して、決断が早く、


引き延ばすことがなく、呉国の人はそうしたことで、彼をしのびました。