みなさん、こんにちは。
うぇんじゅんです。
最近、私のブログでは、中国史で好きな人物を紹介してきました。今回は逆に、嫌いな人物を紹介しようと思います。その名は、王莽(おうもう)。日本ではそれほど有名な人物ではないと思いますが、新という王朝を建国した人です。
(割と有名ではあると思われ。。)
新朝は、西暦8年から23年まで15年続いた短命の王朝です。この王朝の前後は漢。漢字、漢民族、漢方薬など今にも名前が残る、中国の源流と言える有名な王朝ですね。前半は前漢、新を挟んだ後半は後漢と呼ばれ、それぞれ約200年続いた王朝なので、王莽が中断させなければ、漢は400年以上続いたかもしれません。王莽は、この漢を中断させた簒奪者ですから、嫌われるのも当然ですよね。
(うーむ。。)
そんな王莽は、前漢末期の皇后の家系に繋がる人物で、簡単に言うと偉い親戚に引き立てられて出世した人物です。しかし野心家であり、対立する権力者をあの手この手で排除し、ついには前漢の皇帝から禅譲という形で帝位を奪い、さらに王朝を変えてしまったんです。そしてなんと、邪魔となると実の息子まで殺しているそうです。
こうまでして手に入れた皇帝の位ですが、彼が在位していた15年の間、結果的に国内を混乱させただけで終わるんです。数々の制度改革を実施し、理想的な国家を造ろうと考えたんでしょうが、性急すぎたことと、現実離れしていたことで失敗してしまいます。例えば、通貨を5回も変えているんですよ。15年間で5回もお金が変わったらどうなるか、分からないんですかね?
こんな形の貨幣もあったようです。
税制改革では理想的な政策を考えても、実施段階で少数の大商人や腐敗役人らによって大多数の農民が搾取されてしまい、失敗しました。
その結果、全国各地で反乱が続発し、鎮圧に失敗。混乱の中で王莽は殺されてしまいます。国という巨大な権力を盗んでおきながら、上手く運用できないなんてとんでもない話です。国民が大迷惑ですよね。
しかし、以前紹介した武則天も、唐王朝を途中で断絶させ、目的のためには身内も粛清するなど手段を選ばなかった人物でした。その点をまたまた、べいぷさんに聞かれました。武則天は唐王朝の発展期に現れ、王朝の勢いがある時代であったこと。逆に王莽は、前漢王朝末の衰退期で、結果的に荒療治が失敗したとは言え、両者は男女の違いや時代背景が大きく異なるものの、共通点が多いのに、私にとっては好悪真逆なので、面白いねと言われました。
近年日本では王莽の小説も書かれ、再評価が進んでいるそうです。私も、書籍以外にもネットで少し調べてみて、それまで嫌いだった王莽という人の見方が少し変わりました。もちろん、理想があっても実効性がないとダメで、反乱が起きるような失政をしたことは責められて当然だと思います。しかし、改革は実際にやってみないと分からないことだってあるでしょう。緑化ネットワークも毎年いろんなことを試していますが、全部成功したわけではありませんし、その失敗を住民たちから悪く思われると、それはすごく悲しいことですよね。そう考えると、王莽の後世のイメージは悪いのですが、少し同情もするようになりました。
小さい頃に興味を持った歴史ですが、改めてこうして本を読んだり、ネットで調べてみると、大人になって経験をして初めて気づくことや理解できることもあるんだなと思いました。
(ないす)
(おしまい)
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