原動力 | あの頃は若かった

あの頃は若かった

50代半ばの生活や仕事、人間関係について書いています。老化や性のこと、心や精神世界のことなど、現在の課題について考察しています。

Pさんに対して、「遊び」と割り切っていたのに、なんだか雲行きが怪しくなってきた。たまにリスケや予定外の時間短縮があると、せつなくなってしまう。その時間、すごく楽しみにしていた自分に気付いてしまう。本当に何も聞かされていないからわからないのだけど、Pさんはすごく自由な日と、まじめな家庭人の日があって、最近はちゃんと「夫」さんをして、奥さんと仲良くしている風なのである。例えば帰って怪しまれるからおふろは入らないとか、入っても自分の家のと匂いが違うからボディソープは使わないとか。そういうの、ドラマとか歌だけの世界だと思っていたけど、実際あるんですね~。12月はきっと家族に回帰されることが多いだろうし、年末年始も旅行だと思うから、そのせいもあってかちょっとさみしくなってきた。

 

ああ、もしかしてこのままいくと私はPさんを愛してしまうのではないか。こんな底辺しか知らなかった私に、ちょっと甘い夢を見させてくれて、セレブな気分を味合わせてくれて、そして自分のものにならないがゆえに相乗効果で燃え上がり悲劇のヒロイン気取りで悲しくなって、愛とか恋とか言ってしまうのではないか。

 

とはいえ、相手にとっては私は完全にセフレで、絶対に家ではできないようなプレイをするためだけの要員である。私はがんばってる。決してドMでも愛奴でもないけど、まあ合わせてる。相手の喜ぶようなこと、いっぱいしてあげてる。痛いのだって気持ち悪いのだってがまんしている。それは相手がPさんだから。

 

お客さんの中にはそういう願望を持つ人もいたけど、プライベートでしたいとは思えなかった。私はPさん独特の知的な変態性に強烈に惹かれたのだった。距離的にも待ち合わせ場所まで1時間ぐらいかかるけど、それでも行くことができるのは、Pさんだから。ほかの人だったら絶対に何かしらの理由をつけて断っている。

 

私を突き動かす原動力、それこそが「情熱」。

今はそれはもう「性欲」とか「愛されたい」「癒されたい」とかではない。ただ「失いたくない」という気持ちだけかもしれない。それでも私が待ち合わせ場所まで動くことができるうちは、まだ情熱は残っているのかもしれない。

 

私の好きなブロガーさんが、いつだったか記事にされていたけど、『(不倫も含めて)恋をするカップルは巡る季節のイベントをともに過ごしながら年月を積み重ねていく』って、とても素敵なことだと思う。すごく心に残っています。今までそういう経験が私にはなかったけど、桜や紅葉を一緒に見たり、クリスマスをしたり、そういうの一緒にできるって素敵だなあと思う。

 

私はそれをPさんに求めてしまっているのかな。。。もう私の年齢ではそういう相手をほかに見つけることも難しいし、もしも、相手も同じように思ってくれていたら嬉しいと思う。おっさんの場合お金もないし、基本ひきこもりだから連れ出せないし、私が尽くすのみだからつまらないし。

 

私はいつも自分に自信がなくて、今までPさんの顔もまともに見れなかったのに、今はちゃんと直視できるようになった。もちろん好きになっても今のままの距離感を縮めることはないし、今まで通り私からLINEしたりもしない。連絡が途絶えたら確実に終われる、その選択肢をPさんに委ねている。Pさんのことだから、どうせ愛だの恋だのは却下されてしまうことは目に見えている。

 

私とは『罪悪感がないんだよなー』と言う。風俗で放出したあとの賢者タイムのように『ああ、またやってしまった』みたいな後悔に似た気持ちにならないんだそう。それって、ただお金が発生してない(タダでやれる)からじゃない!?とも思うけど。それでもきっと私のことは多少は好きだし今のところ「手放したくない」と思っている。こういう関係だから、自分のいいとこだけ見せればいいから、私はいつも最大級に優しくしてあげている。どうやったら気持ちよくなってもらえるか、回数を重ねるごとに確実で着実な方法を知っていく。まるで○○ホールになったみたいに、自分の快楽なんてそっちのけのこともある。脚がつりそうになったり筋トレみたいな動きになったり、結構しんどいのよ。

 

別れた後「今日はありがとう」ってLINEくれるけど、あれだけしてあげたのだからまあ当たり前だろう、と思うときもある。でもどこかに愛はあって、私はPさんを失ったときにはさめざめと泣いてしまうような気がしている。年齢的に先は長くはないけど、もう少し同じ季節を過ごしていけたらいいなあと思う。ささやかな私の願いです。