新年明けましておめでとうございます。

 

遅くなりましたが、2022年「今年の10冊」です。

去年一年の間にぼくが読んだ本のベスト10を選んでいます。

これは去年出版されたものに限りません。

 

1. 国宝 吉田修一

2. 塞王の楯 今村翔吾

3. 笑い神 中村計

4. げいさい 会田誠

5. ばかもの 絲山秋子

6. あくてえ 山下紘加

7. 女のいない男たち 村上春樹

8. 冒険のモスクワ放送 西野肇

9. ノースライト 横山秀夫

10.おいしいごはんが食べられますように 高瀬準子

番外

マイ・ウェイ ハチミツ二郎

甘夏とオリオン 増山実

三十過ぎのぼたん雪 田辺聖子

 

1は侠客の家に生まれた男が上方歌舞伎の大名跡の一門に入り、その名門の息子とふたりがお互いにライバル心を燃やしながら芸の道に精進して芸を極めていく姿を描いている。

役者や演技の描写がすばらしく、目の前で観ているようだった。

また、任侠の世界と梨園の世界が詳しく描かれており勉強?になった。

 

2は絶対に破られない石垣を造ろうとする穴太衆とどんな城も落とす鉄砲を造ろうとする国友衆という共に近江の国の職人の戦いを描いた物語。そこに情愛の大名・京極高次や甲賀忍者も絡んでまさに近江だらけの小説。

 

3は笑い飯を中心にM-1に賭けた漫才師たちを膨大で綿密な取材を元に徹底的に描いている。ぼくも何カ所かに登場するのですが、ぼくの知らなかったこともたくさんあった。

特に、M-1以前の笑い飯や千鳥がなんと真摯で苛烈な笑いの追求者であったかを知って驚いた。漫才師たちがいかに真剣に、全身全霊を賭けて漫才に取り組んでいるかがわかる良書。

尚、中村さんはスポーツグラフィック誌のNumberがM-1をスポーツとして取り上げた特集号にも記事を寄せている。このNumberの内容がすばらしく、絶対保存版である。

 

4は芸大に落ちた浪人生が芸大の学園祭に参加した一日を描いている。

プロの作家ではないが素直で伸びやかな筆致は才能を感じさせる。

 

5は群馬の大学生のヒデは額子に別れを告げられ、しかも手ひどい仕打ちを受ける。その後他の女と巡り会うもしっくりいかずアル中になってしまう。

こう書くとありふれていてなんだかつまらないのだが、その書きぶり、文体がなんとも言えない魅力のある小説。

 

6は芥川賞候補作。娘、母、祖母の三代の女家族の物語。

ぼくは芥川賞受賞作よりおもしろかった。

 

7は他に「ドライブ・マイ・カー」や「イエスタデイ」「独立機関」「木野」などの短編集。映画「ドライブ・マイ・カー」はそれらを統合した形でつくられたと思う。

ぼくはハルキを選ぶことは少ないのだが、リュウの「MISSING」が珍しくおもしろくなかったのでこちらを選んだ、ということでもないのだが。

 

8は30年ほど前、サーカスファミリーとNGKへの出演交渉・打合せをするためにソビエト連邦末期のモスクワに一緒に行った西野さんの著作。

西野さんは大学卒業後、ロシア語も何もまったく知らないのにソ連に渡り、モスクワ放送で日本向けの放送をしていた。

当時、ソ連では禁制だったビートルズの「バックインザUSSR」を放送して事件になった話や岡田嘉子さんとの出会い、肋骨レコードの話などびっくりするような話が満載。

 

9はタウトの椅子を巡るミステリー

 

10は芥川賞受賞作。女は怖い、男はずるいということですか。

 

番外の「マイ・ウェイ」はハチミツ二郎という人間のふてぶてしさ、繊細さ、大きさ、おもしろさを再認識した読みもの。

 

(なぜか画像が横向きになるやつがある、なんでだろう?
わかる方いますか?)

 

今年もMー1グランプリが終わりました。

今年は特に本命がいないと言われてました(そうでもなかったのかな?)。

ぼくも初めて見るコンビが多く予想がつかなかったし、予想のしようがなかった。

 

そんな中でタイタン所属のウエストランドが優勝した。

彼らの漫才は「あるなしクイズ」をきっかけに、井口さんの方がその言葉に対して悪口を言い、攻撃しまくる。
あるなしクイズは途中からきっかけに過ぎなくなり、問題は井口さんの悪口のテーマ出しみたいになっていく。

 

今年は、このウエストランドのように、漫才と言うには微妙な形式のものが多かった。

真空ジェシカ、ロングコートダディ、男性ブランコ、ヨネダ2000は漫才コント。

純粋しゃべくり漫才はカベポスター、オズワルド、さや香、ダイヤモンド、キューの5組。さや香以外はいずれも低い点数で、それぞれ7~10位に低迷した。

 

これをどう見るか?

ぼくは、漫才の途中にコントが入る漫才コントは否定しないし好きだ。

しかし今回のは漫才コントと言うよりも、ほぼコントに近いものだった。

衣装や小道具を使ってないというだけだった。

 

Mー1を立ち上げるときに、漫才の定義をどうしようかと橋本くんとふたりで悩んだ。

それで決めたのが、

ふたり以上の人間同時に出てきて、マイクの前でネタをやり、ふたり同時にはける。持ち道具はいいが、置き道具は認めない、音響に関しては主催者側は何もしない、手持ちでラジカセなどを持ってきて音を出すのはかまわない」

というルールだった。

つまり、人間だけが出てきて、しゃべりだけでやってください、どちらかが先にスタンバイしているようなコントはできないということだ。

漫才の中でコントをやることはできる。

初期には犬とやりたい、エレキギターとやりたいという人もいたぐらいだ。

 

別にこのルールを周知徹底したわけではなかったが、それでもこのルールから逸脱するコンビはいなかった。

それが漫才であり、漫才とはそれほど懐が深く、許容範囲が広いのだ。

 

さてウエストランドだが、審査員がみな悩んでいた割には大吉くん以外の全員がウエストランドに票を入れた。

関西人はさや香が一番良かったという人が多かったが、審査員はそうではなかった。

さや香の漫才の完成度の高さ、笑いの大きさ、強さは皆が認めるところだと思う。

ではなぜさや香は負けたのか。

 

ここからはぼくの想像なので、座興として聞いてください。

 

ウエストランドのネタは、こういう大会の審査員、特にM-1グランプリの審査員にとってナイフを突きつけられたようにきついものだったと思う。

 

公衆の面前で自分の笑いの立ち位置を表明せよと迫られるのはM-1の大きな特徴だ。

審査員もまた審査されている。

これが結果を左右した。

 

ウエストの、悪口をどんどん言う漫才は自分に害は及ばないから安心して笑える、というのはお客さんだけで、それを評価するとなると大変である。

単なる客ではない、審査員だ。

それはとても危険な一面を持っている。

わたしはこういうネタがわかるセンスも持ってるので、きっちり評価できるんですよというところを視聴者や観客に見せないといけない。

ということは票を入れないといけない。

ベタにさや香を選んではMー1審査員の名がすたる。

ウエストを選ばざるを得ないのだ。

ウエストは、恋愛映画やタレントやお笑いを遠慮なくけなしまくり、決勝ネタでは役者、田舎からR-1まで悪口を言いまくり、切りまくった。

 

あのなりふりかまわないネタをやられたら、本音は違っても、Mー1の審査員は、いやMー1の審査員だからこそ選ばざるを得なかったのではないか。

抜き差しならない立場に置かれたのである。

志らくさんはもちろんだが、サンド富澤さん、ナイツ塙さんは比較的すんなりとウエストに投票できただろう。

 

けれど中川家礼二さんやダウンタウン松本さんは迷ったと思う。

まあ、芸風から言えば、どちらかというとウエスト寄りかもしれない。

でも、ふたりの持つ漫才師としてのテクニックその他はウエストの比ではない。

そういう意味では、さや香の漫才の出来の良さはふたりが一番よくわかっていると思う。

しかし、あえてウエストに投票した。

今回のファイナルの審査員は、

「わたしは笑いをわかっており、心が広く寛大なので、こういう邪道(言い過ぎかもしれません、はい)のネタも排斥しません、この漫才の斬新なやり方も喜んで受け入れ、評価します。

これに比べると、さや香の漫才は、確かに正統派の堂々たる漫才でとてもおもしろかったのですが、ウエストに比べると迫力が足りないと感じました、わたしは今回はあえてウエストを選びます」

というような心理によって評価を下さざるを得なかったのではないか。

少々オーバーに書いたが、さしずめこういう状態だったのではないかと思うのだ。

自分のアイデンティティを納得させつつ、寛容さも見せるという二面性を持たないといけなかった。

 

以上はぼくの勝手な想像、妄想ですので深く考えず読み流してください。

尚、ウエストの漫才はおもしろかったです。

うそではありません。

 

いずれにしろ今年もM-1グランプリはおもしろかった。

視聴率も関西は30.1%、関東は17.9%で週間でもダントツ1位だった。

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の最終回とかぶったのが少し影響しているかもしれない。

 

(文中、敬称略にしようと思ったのですが、ちょっと変な感じになったので全員さん付けにすることにしました。それも変ですが)

 

 

新年明けましておめでとうございます。

 

去年、一昨年といろいろと移り変わりの多い年でした。

長年勤めた吉本興業をやめて毎日が日曜日の生活に入ったものの、同じ頃にコロナという病原菌が世界を席巻しだしたためにやろうと思っていたことを満足にやれないまま月日が過ぎました。

ようやく9月になって美術教室が開校してデッサンを始めました。

1年後の去年11月には美術教室主催の展覧会に出品させていただき、2年目からは人生初の油絵に挑んでおります。

文学の方は、数年前から通っている文学学校で駄文を書いております。

漢詩やら英会話やらいろいろと始めました。

とにかくやりたいことが山ほどあり、目移りしすぎだと自分でも思います。

(いったんここに列挙したのですが、恥ずかしいので消しました)

 

さて恒例になりました「今年の10冊」です。

去年一年の間にぼくが読んだ本のベスト10を選んでいます。

上に書いたようにいろいろなものに手を出しすぎで、会社をやめて時間があるはずなのに読書量が減っています。

その中からベスト10を選んでいます。

フィクション、ノンフィクション織り交ぜています。

尚、これはぼくが去年読んだ本のベスト10であり、去年出版されたものということではありません。

 

1.   テスカトリポカ 佐藤究

2.   人新世の「資本論」 斎藤幸平

3.   退屈すれば脳はひらめく 7つのステップでスマホを手放す マヌーシュ・ゾモロディ

4.   ある男 平野啓一郎

5.   夏物語 川上未映子

6.   魯肉飯のさえずり 温又柔

7.   LISTEN ケイト・マーフィ

8.   ミーナの行進 小川洋子

9.   身分帳 佐木隆三

10.JR上野駅公園口 柳美里

番外

ねこ背は治る! 小池義孝

小林秀雄の恵み 橋本治

 

1はこれだけのものをひとりで書いたとは信じられないくらいにいろいろな要素が入っていて、なおかつハラハラドキドキしておもしろい小説です。

限りなく残虐で化け物のような人間が何人も登場するのですが、不思議と肩入れしてしまう人物を造形している。特にコシモは好きになってしまう。

間違いなくここ数年でNO.1の作品でしょう。

 

2はあまりこういう類いのものを読まないぼくにはとにかく新鮮で衝撃であった。

今、様々なところで盛んに言われているSDGsであるが、このままいけば人類あるいは地球は壊滅するであろうということ。それは簡単なことではなく、生活規模を1970年代後半のレベルに戻さないと気候変動に対処できないという事実を知らされて愕然とした。甘くないのである。

 

3は、脳のひらめき、アイデアの源泉となるのは「退屈」であり、そのためにはスマホを手放さないといけないという。確かにスマホを手放せなくなった頃から長い文章を読むのがつらい、長い話を聞くのがめんどくさいと感じることが多くなった。読書量が減ったのも、老眼だけが原因ではないと思う。

それについては7も同じようなことを言っている。

知性豊かで想像力がある人になるには「聞くこと」が大事であり、一生の友人をつくり、孤独ではなくなる、ただ一つの方法は「聞くこと」であるというのだ。そしてその一番の妨げになるのはスマホだという。

 

4は、あの平野啓一郎がほんとにこれを書いたのかと驚かされた。平野の小説なのにこんなに面白いのかという驚きだ。

デビュー作の「日蝕」は難解さにめげてすぐに投げ出したのに、この小説は興味深く読めた。

エンタメ小説に近い。それでもやはりすごいのは通俗と見せて実は人間の根源につながる問題を描いているからであろう。

 

5も、川上未映子という作家がこんな小説を書けるのだということに驚いた。

特に第1部の大阪弁を駆使する大阪の女の明るさ、しぶとさみたいなものを川上が書くとは想像もしていなかった。

こんなに面白い作家だったのだ。

 

6は、台湾生まれ、日本育ちの中国人女性作家の作品。

日本語、台湾語、中国語の入り混じる過程で育った作者を投影したような主人公は、「ママがずっと私の恥部だった」ので優しい日本人と結婚するが。

何よりも日本語の美しさが飛び抜けている。

 

8は、これも小川洋子という作家はこんなに明るい小説を書くのかと驚いた作品だ。

1970年頃の芦屋にこんな小学生や中学生、家族が住んでいたと想像するのはとても楽しかった。

 

9は、「すばらしき世界」というタイトルで映画化された。それを見て原作になったこの小説を読んだ。

映画もおもしろかったが、小説は映画では表現しきれなかった細部がよりおもしろかった。

というよりも、映画はこの小説世界をかなりうまく映画化したというべきか。

 

10は、平成天皇と同じ日に福島県に生まれた主人公は出稼ぎに東京へ出てきて苦労をなめ続け、上野でホームレスになる。

ふるさとの孫達は大地震に遭い、主人公は天皇の行幸に伴う「山狩り」に遭うという悲しいストーリーは、ある種の主義主張をしているだけに見えるかもしれないが、決してそれだけではない引きつけられるものを感じた。

 

この他にも、 姫野カオルコの「青春とは、」とか西條奈加の「心寂し川」、あるいは柚月裕子の「盤上の向日葵」、同じく小川洋子の「人質の朗読会」など女性作家の軽い作品に面白い作品が多かった。

 

番外の「ねこ背」は最近座ることが多くなりがちで不調を来しているので、改めて読み直した。

立ち方、座り方と肺呼吸の大事さについて前にはまったく読みとれてなかったことがわかった。

 

「小林秀雄の恵み」については、昔から大好きな小林秀雄のことを橋本治がどのように書いているのか非常に興味があって読んだのだが、残念ながら橋本も小林の文章に幻惑されている感を免れなかった。

ただでさえわかりにくい小林の文章だが、さらにそこに本居宣長も加わっているので、ぼくはこの本を読んでいて複雑な網に絡まれたように感じた。

橋本は小林秀雄と格闘して、勝てないまま死んでしまったように感じた。

小林が徒然草や平家物語や西行やモーツアルトについて書いたものはわかったような気になっているが、宣長についてはわからない。

もちろんそれはぼくが宣長のものを読んでないからだが、この本を読んでいて本当に徒然草や平家物語のことがわかっているのだろうかと不安になってきた。

 

以上がぼくの読んだ2021年のベスト10です。

今年はなんとか200冊読みたいと思います。

 

2021年が始まってすでにひと月が経ちましたが、あけましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いします。

 

恒例の今年の10冊を遅ればせながら書きたいと思います。

毎年お断りしていますが、これは、2020年にぼくが読んだ本の中でよかったものを紹介するものなので、発行はだいぶ前のものが多いです。

 

【フィクション】

1.「銀河鉄道の父」  門井慶喜

:宮沢賢治の父のことを書いた小説。

 賢治の父は出来た人物であり、日本の父としては、特に戦前においては非常に珍しいタイプで、子どもに惜しみなく愛を注ぎ、それを行動で表すことを恥じない。

うらやましいと思った。ぼくももっと表に出せばよかったと反省している。

賢治が意外にダメ男なのが意外だ。

 

2.「少年と犬」  馳星周

:遅すぎた直木賞受賞作。うまい。文句なくおもしろい。

読み終えたとき、犬が愛おしくて、犬を飼いたくてたまらなくなるのでご注意。

 

3.「流浪の月」  凪良ゆう

:いろいろ思う人はいるだろうけれどおもしろい、それが一番大事。

 

4.「灯台からの響き」  宮本輝

:宮本輝は毎年の恒例なので今年も入れておきます。新作が楽しみだ。

 

5.「破局」  遠野遙

:芥川賞受賞作。最近歳のせいか芥川賞受賞作をあまりおもしろいと感じられないのだが、これはおもしろく読めた。おかしい? 同時受賞の「首里の馬」よりおもしろかった。

 

番外.「終わった人」  内館牧子

:小説的にはB級だと思うが、会社をやめるにあたってぼくが描いていた安易な夢を砕いて覚悟を与えてくれたので選んだ。

 

【ノン・フィクション】

1.「生きづらさについて考える」、「サル化する世界」、「そのうちなんとかなるだろう」 他  

  内田樹

:なんとなく避けていた、と言うより食わず嫌いだった内田樹を読んでみたら病みつきになった。

知識・教養というようなものはもちろんのことだが、生きていく上での精神とか、決意とかいうようなことを教えられる。他の著書もまだまだ読みたい。

 

2.「FULL POWER 科学が証明した自分を変える最強戦略」 ベンジャミン・ハーディ

:会社をやめたら今まで以上に自分を律していかなければならないと思っていたが、意志とか決意というものだけでそれは出来ないことがわかった。そのためのやり方をこの本で教えられた。

 

3.「向田邦子 ベストエッセイ」

:向田のエッセイの中からいいものを集めたのではないか。もっともっと読みたかった。早くに亡くなられたのがほんとに残念だ。

 

4.「ケーキの切れない非行少年たち」  宮口幸治

:非行少年にはケーキを三等分出来ない子達がたくさんいるという。

非行に走るのは、環境とか性格だけが原因ではないということを初めて知った。

 

5. 「安倍晋三」大研究  望月衣朔子 佐々木芳郎他

:前に出た本だが、どのようにしてあのような人物が出来たのかということがわかるような気がした。人間は、なかなか変わらないものなのですね。

 

番外1.「街道をいく17 島原・天草の諸道」 司馬遼太郎

:熊本、天草を旅行するにあたって本棚から引っ張り出してきて読んだのだが、ざっと読んだだけでも天草の歴史というか空気のようなものを知ることができ、旅に深まりが出来た。

このシリーズがすばらしいことは週刊誌に連載時からわかっていたけど今回それがはっきりしたので、これからは普段から少しずつ読んでいこうと思う。

 

番外2.「お前の親になったる」  草刈健太郎

:妹を殺されたのに、自らの会社に犯罪者を雇い、親代わりになっておられる草刈さんの正直な告白。口で言うのは簡単だが、4にも出てくるような、一筋縄ではいかない子達を雇う苦労は筆舌に尽くせないものだと思う。

 

 去年の4月に39年勤めた会社をやめて、やりたかったことをやろうと決めたわけです。

絵を描くとか書道とかいろいろやりたかったのですが、たっぷり読書が出来るというのも一つの楽しみでした。

ところがこれがなかなかそうはいきませんでした。

下手をすると去年より少なかったぐらいで、100冊に届かなかった。

やっぱり時間がありすぎるのはよくないことがわかりました。

いや、実際には雑用が多くて、あまり時間はないのですが。

時間はいっぱいあると思うのがダメなんですね。

2021年は自由にいっぱい読もうと思います。

 

今年のM-1グランプリについて書きます。

 

3時間半の長丁場だったが、復活後一番の視聴率だったそうだ。

裏に「鬼滅の刃」が来ていたのも何のその、関東19.8%、関西29.6%という驚異的な数字を叩き出し、圧倒的に1位だった!

ぼくがやっていた頃は、フジテレビが裏にいつもフィギュアスケートをぶつけてきた。

いや、M-1が裏か、とにかく1位を取るのに苦労した。

結果的には30%越えもあったが、それよりも何よりも、今はM-1グランプリが市民権を得たことに驚く。

朝日放送系列以外のテレビ局でも平気でM-1という言葉を使っている、NHKですら。

M-1の優勝予想をしている番組もあるくらいだ。

かつてのレコード大賞のように、一般の人も今年のM-1グランプリは誰が優勝するのだろうという会話をするようになった。

もはやM-1は普通名詞になった。

ここまでなるとは予想していなかった。

いや、レコード大賞のようにしたいと思っていたし、そう熱弁した。

でもまさか本当になるとは思わなかった。

 

さて、中身の話に移る。

決勝は「おいでやすこが」「マジカルラブリー」「見取り図」の3組で争われ、マジカルラブリーが優勝した。

ピン同士の急造コンビの「おいでやすこが」や、セリフのほとんどなかったマジカルが残ったことについて、漫才も変わったと思った方も多かっただろう。

関西では老若男女を問わず、唯一漫才らしい漫才をした見取り図を推す人が多かったようだ。

なんとなくこの結果に不満を抱いている人も多いだろう。

ぼくもなんとなく違和感を感じた、決勝3組はこの3組でいいのかと。

しかしその後で、決勝に残った他の組も含めて漫才が変わってきている、もはや自分の感覚は古いのかもしれないという恐怖を感じた。

 

だが、考えてみたら漫才というのは生ものであって、常に時代に乗っかって、時代を切り取って今まで生き残ってきたものだ。

初めて背広を着て楽器を持たずにしゃべりだけでやった「エンタツ・アチャコ」に始まり、動きを入れて今の漫才の原型をつくった「やすし・きよし」、スーツを脱いでジーパンで舞台に上がった「カウス・ボタン」、つなぎを着てヤンキー漫才をやった「紳助・竜介」、大きな声でハキハキしゃべるのが当たり前の時代に小声でぼそぼそと斬新なネタをやった「ダウンタウン」、両方がボケとツッコミになった「笑い飯」……

どのコンビも、それまでは邪道とされていたことをやって漫才を革新し、やがてそれが普通になった。

 

去年は「ミルクボーイ」と「かまいたち」といういかにも漫才師らしい二組がすばらしいネタを持って優勝・準優勝して、その後、たいへんな人気者になった。

「ぺこぱ」という新しいツッコミの漫才も人気を得た。

今年の3組もどうなるのかものすごく興味深いところだ。

 

あと番組に注文がある。3時間半というのは長すぎる気がする。

司会のふたりが登場したのが番組が始まって30分近く経った6時55分頃、ひと組目の漫才が始まったのが1時間近く経った7時25分頃。敗者復活組が1番に選ばれるというドタバタがあったにしろ、あまりにも遅い。間延びしすぎた。

M-1グランプリとはどんなものか観てやろうと思い、初めて観た人は、いつまで経っても漫才が始まらないのでやめてしまったのではないか。

2時間半、せめて3時間にして、緊張が凝縮した中で笑いが爆発するというM-1のスタイルにするべきだと思う。

局はスポンサーがいっぱい付いてもうけどころではあろうが、あまりのデコレーション過多は、全盛期のレコード大賞の二の舞になりそうな気がして心配だ。

 

もうひとつは、去年も書いたが、出場資格をコンビ結成10年以内という元の形に早く戻すこと。

ネタの出来と話術が漫才の両輪で、このふたつによっておもしろさが決まると思う。

コンビ結成15年というのはすでに中堅・ベテランに入ろうかという時期で、テクニックのうまさだけで笑いを取れる年数だ。

この点で若手は大きく劣る。いくらネタづくりの才能があって、斬新なネタをつくってもかなわない。

新人漫才のコンクールという趣旨からも外れている。

もちろん、そんなことを吹き飛ばしてしまうような才能ある新人は別だが、大多数の新人にとっては大きなハンデだ。

R-1のようにいきなり芸歴10年以内という無茶なやり方ではなく、1年間の猶予期間をおいて10年に戻す必要があると思う。

高校野球の甲子園は泣いても笑っても3年という絶対的な制限があるからこそあの緊迫感があり、盛り上がりがあるのだと思う。

M-1グランプリも一緒だ。再考を願う。

漫才師は10年を越えたら次のフェーズを目指すべきである。

M-1はあくまでひとつの通過点である。

目指すべきところは生のお客さんを笑わせることである。

劇場でも営業でもライブでも目の前のお客さんに笑ってもらうことこそ漫才師が目指さなければならないことだと思う。

 

もうひとつ気になったのは、最近、司会の今ちゃんが自分の感情を出しすぎになってること、そしてカメラもそれを追っていること。

少々司会者としての分を越えているように思う。

今年は涙を流して笑っているところが何度か流れた。

審査員も人の子だから、若手漫才をよく見て知っている今田くんの笑いは気になるだろうし。

司会は笑いやコメントによって出演者の評価をしてはいけないと思う。

公正な審査をしているM-1の評価を落とすことにならないように、ちょっとだけ苦言を呈しておきます。

 

いずれにしても、やっぱり漫才おもろいわ!

やっぱりM-1おもろいわ!